きっと、心と身体の年齢は比例しない。
精神状態が不安定になったとき、心は子供のようになっているんだろうな。
それは、傍から見ればバカにされる対象だろうし未熟さの証なんだろう。
だけど、心は年齢も性別も何もかも取っ払った姿のように思う。
世間がどれだけ常識を押し付けてこようと、深く深く奥にあるその場所に届くことはない。
いっそのこと、常識で洗脳してもらえたならどれほど楽だっただろうなんて思うこともある。
何にも染まりきらない。
だから、色を自分で出していき、その色として生きていくしかないのだろう。
ほとんどの人が気にもとめないようなことで、涙が出ることがある。
本当はね。
一人の時にしかそんな部分出せないけれど。
泣き虫だったあの頃と、何も変わってはいないんだろうな。
頼りなくてどうしようもなかった子供の頃と何が違うというんだろ。
うずくまって小さくなって眠りに落ちることをただ待つしか出来なかった頃と、何も変わっていない。
何か変わったことがあるとしたら、「うまくやること」を少し覚えたことくらいか。
唯一の武器のそれも、付け焼き刃でしかない。
だから定期的に来る不安定な波に簡単に飲み込まれてしまう。
波の後に残されたのは、7歳位の自分。
寝て起きたらもとに戻ってる。
案外、スッキリしていることもある。
必要なことなんだろうな。
大人の世界に戻ってくる代償として現実の目の前の問題をクリアすることが要求される。
いつまで繰り返すんだろ。なんて思うこともあるけど、それでも自分は恵まれてる。
その自覚もある。
いつも幸せな気持ちでいられているのは、いつも親切に善意を持って接してくれる一部の人達のおかげだよ。
その優しさに癒やされ、あたたかい気持ちをもらい、自分を取り戻す。
そして自分という存在を全肯定してもらえている気持ちになる。
その人達が繋ぎ止めてくれてる。
どれだけ一人で泣いたって大丈夫。
暗い場所から戻る場所を照らしてくれてるように思う。
なんの繋がりも関係性もなかったとしたら、きっと孤独と共に自分の存在価値のなさに闇は深くなっていっていただろう。
また頑張ってみよう。そう思えるのは、変わらず接してくれる人たちがいてくれるからだ。
先週末かな。
嫌なことがあって。
内容的には大したことではないし、よくあることなんだけど。
数日かけて頑張っていたことが駄目だったんだ。
自分的にとても頑張ったのにうまくいかなくて、全然駄目で。
自分がやりたいことだったら何度だってやろうと思える。
だけど、別にやりたいことではないけど、やらなければならないことだったので心が折れてしまって。
これくらいの出来事、本当に誰にでも起きることだし大げさに悲しむことじゃないのも知ってる。
でも、どんなことが起きたかということと、どれだけ傷つくかってイコールじゃないんよな。
そして傷つくことについても、誰かが悪いとか思ってなくて。
自分の未熟さや不甲斐なさや、そういうものがグチャグチャになって押し寄せた。
やりたくないことで報われなければ、すぐにでも投げ出したくなるよ。
くたびれる。
何度も向き合おうとしても、どうしても難しくて、今、少しだけ良くなった。
本当社会人1年目みたいな悩みでお恥ずかしいんだけど。
リアルな自分の気持ちを素直に書くとこんな感じだな。
弱いところを極力隠さない。
ダサくて恥ずかしくても、そのダサくて恥ずかしい自分がリアルな本当の自分だから。
ちっぽけで上手に出来なくて打ちひしがれて。
傷つかなくていいことで傷ついてふさぎ込んで何もできなくなって。
全部嫌になって。
ただ一つ。
人間らしい。とは思う。
かっこ悪くてどうしようもなくて、下手で生産性がなくて。
そういう部分も、紛れもなく自分だ。
そういう部分を隠して生きるなんて、息苦しいよ。
感情が押し寄せるとき、まるで走った後のように呼吸が上がる。
そして”くる”のがわかる。
一気に頭から黒いイメージに飲み込まれて精神世界にダイブする。
気づいたら子供の心になっていて、何もかもが寂しく悲しく感じる。
誰かに頼りたくなって我慢してきたことが我慢できなくなる。
子供の頃に、経験してこなかったことが影響しているのかな。
それとも経験しなくていいことを経験したからなのか。
どちらにせよ、全てを抱えて生きることに変わりはない。
大人の体を引きずりながら子供の心で歩き出す。
こうして文章を書いていると、自分の精神状態と向きあうことになるので、心の変化をすごく感じる。
そして、今回みたいな事を書くとき、自分の心をえぐりながら書いている感覚がある。
誰もそんなことしろなんて言ってないのに、やりたくなる。
心の状態をまとめたいという気持ちもある。
文章の正確さより、心の動きやイメージの正確さを重要視する。
心の中での出来事を書く。
そのことが、自分自身の癒やしにも繋がっているのかもな。
書いて気が済んで公開しないことが多いけど、公開しなければ気がすまないこともある。
誰かが見る可能性がある場所におくことで、落ち着くというのはおかしな話だけれど。
心の中を駆け巡るイメージを文章として表現するということに興味がある。
こういう精神状態の時によく見るのは、薄暗い部屋で横向きに胎児のように丸まっている自分がいて、それを天井から見てる。
すると、左回りに映像が回転しながらズームアウトしていくというイメージ。
それは、過去の自分なのか現在の自分の心のイメージが生成されたものなのかわからないんだけど。
あれが自分なのかどうかもよくわかんないな。
顔はよくわかんない。
ただ、今の自分の体ではないな。
少し子供部屋のような雰囲気も感じる。
床は畳のような気もするけどわかんない。
これなんなんだろうね。
時々、決まった感情に対して味や匂いやイメージを感じることがある。
感情に匂いってあるよな。
なんともいえない。
涙の匂いなんかもしれないけど。
感情が心の奥から津波のように押し寄せて「くる、くる!」っていうあの感じもなんとも言えない。
両目の間、鼻の上、その辺りで感じる暗闇で押し寄せてくる津波。
飲み込まれたら息が上がり、寒いときのように顎から震え、唇を噛みしめると涙が出る。
あの感覚は、とても切ないけれど大切な気持ちでもある。
自分が自分である証。
切なさと悲しさに飲み込まれても、戻ってこれる場所を照らしてくれてありがとう。
いつも、サラッと人と関わって人間関係は流れていくものだと思ってる(思うようにしてる)けど、関わってくれてる人に俺からも本当はこだわりを持ってるよ。
誰でもいいわけじゃないんだ。
心から楽しいと思える人とだけ関わりたいから。
頻繁に連絡を取らなくても、極一部の人の事は大切に思ってる。
相手はどうかわかんないけどな。
自分の気持ちと相手の気持ちはイコールであるとは限らないからさ。
だから、一方通行の気持ちを持ち続けるよ。
無理なくね。
自分が関わりたいかどうか、自分が好きかどうか、それだけでいいんだろうな。
病んでる人に一定の理解があるのは、自分自身がこんな感じだからなんよ。
別に表面上で肯定してるわけではない。
誰にも言えない苦しさや、誰に言ったらいいのか分からない感情の迷子になっているのは俺自身なのだから。
大切だと思う人の心には寄り添いたい。
正しさとかさ、そんな事すら訳わかんなくなっちゃうくらい混乱してしまう気持ちも分かる。
少々間違っていても、その人の心が守られるならいいよ。
あとはどうにでもなるし、取り返そうと思えば取り返せることばかりだ。
人に、そのように思うことで自分自身の同様の部分にも寛容的になっていけるのかもしれない。
相手の心を癒やすことは、自分自身の心を癒やすことと繋がってる。
相手と自分の心の境界線なんて、本来ないんだろうな。
体が邪魔なだけでさ。
相手が喜んでくれたら自分も嬉しいと思う感情こそ、その証拠だ。
心が成熟している人とのコミュニケーションは、土台として「相手が喜んでくれたら自分も嬉しい」という感情のもとに成り立ってる。
だからとても気持ちがいいし、感謝に溢れてるんだ。
一方、心が成熟していない人とのコミュニケーションは、「妬み」が土台にあったり、「自己肯定感」を他人を使って満たすことが目的になっていたりする。
自己肯定感があがるのは結果であって、目的になるとこじれるよ。
自己肯定感は求めてたどり着くものではない。
「相手が喜んでくれたら自分も嬉しい」という感情を持つ人達との関係性の中で自然に育まれていくもの。
求めなくても溢れてるんだよ、そこには。
声かけたら損したと感じさせてしまう人っているよね。
勝手に不快感を感じて、勝手に感じた不快感に更に不快感を上乗せして返す人とか。
地獄かよ。
ちょうど、先日見かけてさ。
あ〜、関わらなければいいんだと思った。
人が寄り付かない人って、短所があることが駄目なんじゃないんだ。
相手へのリスペクトの気持ちがないことが駄目なんだなと思った。
なんだろ、尊敬してくれと思ってるわけじゃなくて、気持ちよくコミュニケーションが取れればそれでいいんだけど。
軽んじられすぎると腹が立つね。
声をかけた時の返事によって、その人の人間性がある程度分かると思った。
好かれてる人や、俺が積極的に関わりたいと思ってる人って、大体いつも優しい。
逆に、そっけないなと思うとき、何かあったのかなと思う。
何かあったのかなと思うってことは、いつもは良くしてくれているけど今日はそっけないから一時的なことなんだと判断してるってこと。
だから一回だけのことで判断してるんじゃないんよな。
総合的に見ていて、「あ〜。。やっぱそういう感じね。」とどこかのタイミングで思う。
まぁ、でもそれはその人が悪いというより、嫌なら関わらなければいい、距離を取ればいいということでもあるので、相手に何かを求めることはあまりない。
その人はその人として生きていて、その人の人生が直接俺に悪影響を及ぼしているわけではないから。
それに、こうしたほうがいいと思うよって言って聞くような人ならとっくに言ってるしな。
それはその人の問題。
俺の問題ではない。
切り離して考えてる。
俺は楽しく快適に関われる人とだけ関わればいい。
すべての人の人生がうまくいけばいいと心から思ってる。
だけど、俺が共に生きていける人たちは限られてる。
そこは混同してはいけない。
その人にしか解決出来ない問題を、俺が抱え込むのはおかしいしな。
自分自身のことは、孤独になってもおかしくないとは思ってる。
だからこそ、気にかけてくれていたり優しく接してくれる人たちへの感謝の気持ちが自然に湧き上がる。
自分らしくいさせてくれてありがとう。
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