俺は心を持って人と接する。
ゆえに、身近な人の悲しみは自分の悲しみとして捉える。
なにか、心を癒やすような言葉をかけてあげたいのに、どんな言葉も薄っぺらく軽薄に感じてしまうんよ。
たくさんたくさん言葉を知っているはずなのに、表現の組み合わせだってできるはずなのに、どれも当てはまらない。
本人の苦しさに比べれば、本人以外が想像する苦しみなんて比にならない事を知っているから。
。。と、書いていることすら薄っぺらく感じてしまう。
圧倒的な現実の前には、どんな言葉も意味を成さないのだと思い知った。
ただただ現実がそこにあり、真正面から受け止めるしかないのだと。
辛い出来事が起きた、数少ない俺の身近な人にどんな言葉をかけられるだろう。
きっと、俺自身が本当に辛いときやキツイ時に、誰かの優しい言葉すら心に届かないことがあるから、周りの人に対しても逆に敏感すぎるほど敏感になってしまうんだろうな。
心配してるとか、苦しさを取り除いてあげたいと感じるけど、本人にとってはその苦しささえ愛しいものかもしれないし、なんだか自分の感情が的はずれな気がして。。
大変な時期に、無駄に不快な気持ちにさせてしまう可能性もあるから、ただただどれだけ強く心配しているかということが伝わり、その事自体が心の救いになればいいな。。なんて思う。
言葉の内容なんて関係なくて、心配していますよ、早く元気になってくれる事を望んでいますよということが伝えたいだけなんだよな。
でも、そんな自分の感情を伝えたいと思う事自体が驕りな可能性もある。。なんて考えちゃう。
きっと、暴走する悲しみや苦しさや愛しさが入り混じった感情が、気を抜くと心も体も支配してしまうような感覚の中で、他人の言葉なんてちっぽけだ。
時間しか解決してくれないと、個人的には思ってる。
たくさん考えて、思う存分自分で自分の心を痛めつけて、荒みきってボロボロになってしまった後、やっと息を吐ききったあと自然に空気が肺に入ってくるように言葉が届くようになるのだと思う。
少なくとも、俺はそうだから。
俺の場合は、誰の言葉も本当に届かなくなって、とことん自分で自分の心を痛めつけて自分の存在も何もかも否定しまくって、時には心の表現だけでは足りず体も動き出す。
子供の時のような気持ちになって、たくさん泣いて鼻が詰まった苦しさの中、足りない酸素のせいでボーッとしながらいつの間にか疲れ果てて眠りにつく。
そんな日を数日過ごし、思う存分”一人”でいる。
そういう癒やし方しか知らない。
だからこそ、傷ついた時に心配してくれる声さえも軽薄に感じる人の心がとてもよくわかるんよ。
自分が相手にかけようとする言葉すら、軽薄に聞こえるだろうなって。
気持ちを持って、かけてあげたい言葉すら。
言葉は想いを存分に表現するには足りないのかな。
言葉は、人の心を救うこともあるとは思ってる。
ただ、自分自身に当てはめてみると、刺々しい心の状態や耳をふさぎたい位辛いときには、人の言葉を聞く余裕がないし、実際に響かない。
全部キレイごとに聞こえてしまうし。
リアルな心の痛みを感じている人の前で、安全な位置にいる人の言葉なんて届きにくいんよ。
みんなは俺みたいにひねくれていないから、こんな歪んだ感情は持たないのかもしれない。
でも、仮にこんなふうに感じることがあったとしても、自分を責めないでほしい。
誰かの優しい言葉すら、”きれいごと”だと感じてしまう事に罪悪感を感じることがあるよ。
本心で心配してくれていたり、心の痛みを軽減させようとかけてくれた言葉が全く心に届かず、びっくりするくらい冷たい気持ちのまま死んだ目で接してしまうことだってあるよ。
定型文のような心配の言葉に、正直うんざりしてしまう人もいるんじゃない?
俺はそうだからすごく分かるよ。
本当の心の痛みは、一人で時間をかけて癒やすものだ。
それ以外に方法はないと思ってる。
きっと、これは俺の性格なんだろうけど。
人によっては、楽しさや誰かの言葉で埋められる人もいるのだろうけど。
大切で、失いたくない痛みがあるよ。
ずっと忘れたくない、離したくない痛みが。
よくも悪くも、まるで時間は、コップに入った心の液体を水で割るような事をしてくる。
濃いままガツンと感じて自分で自分の心を痛めつけたいというのに。
余計なことしやがって。。と思うこともある。
感じたいだけ感情を感じきって、わがまま放題やって、その後じゃないと立ち直れん。
美味しいものが食べたかったら食べて、たくさん寝たかったら寝て、どこかに行きたかったら行って、何もしたくなかったらずっと何もしなくていい。
そんな日々を過ごし、時には暗い部屋の中で永遠とも思えるような時間を過ごすこともある。
感じきればええわな。
その先にしか、道はないと思ってる。
どんなに冷たくひどい感情が心の中に湧いてきても、自分自身を責めないでほしい。
自己嫌悪は、本来の悲しみに新しい絶望を付加する。
身近にいてくれる人達の悲しみは、俺自身の悲しみでもある。
こんな言葉も軽々しく感じてしまうからあまり使いたくはないのだけれど。
実際そうだ。
俺は、ただただ俺にいつも優しくしてくれる人達の幸せをいつも願ってる。
優しい人にいいことがあると心から嬉しいし、悲しいことがあると悲しい。
はやく元気になってくれるといいなって思う。
優しい人には、良い出来事や嬉しい出来事が似合うから。
無力な俺は自分の感情をツラツラと書きなぐることしかできない。
ただ、言葉は届きにくくとも、理解しようとしてくれている人がいるという事実は、心の救いになるのかもしれないと思った。
俺がそうだから。
極論、俺がどう思うかとかはどうでも良くて、俺が大切に思う人達の心が、その人の望んだ通りに癒やされるといいなと思ってる。
俺自身は猫のような存在なので、心配していてもそっけないように見えるのはこういう理由から。
猫はブログ書かないけどな。
大好きだと思える存在(動物でも人でも)がいつも快適なのが一番いい。
周りの存在に優しくされて、美味しいものを食べられ、あたたかくて安全な場所で不安を感じることなく眠れ、幸せに満ち溢れているのがいい。
そのときの、相手の気持ちを想像することで、俺は俺の幸せを得る。
幸せでいてくれてありがと。と。
悲しいことがあると、同じように心は雨模様になる。
だけど、俺なんかの言葉は軽々しく感じてしまうので多くは語らない。
「せっかく心配してくれて言葉をかけてくれたのに心に響かない」という罪悪感を感じさせてしまうのは本当に嫌だ。
相手の心が無事ならそれでいいんだ。
それがすべてなんだ。
俺と近い距離で関わってくれている人は、本当に少ないよ。
だからこそ、心からこんなふうに思ってる。
今、俺自身先が見えない状態だからブログを書く余裕もないんだけど、今回は自分の気持ちの整理をつけるためにも書いておく。
いつもありがとう。
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