自分の価値観に沿ってコミュニティを作ろうと思うなら、受け入れる人を選ばなきゃダメだ。
本来のコンセプトがあり、最初のうちは共感した人だけが入ってくる状態になり、人が増えるにつれ薄まっていく。
そういう現象を目の当たりにした。
人が抱えるネガティブな感情というものは、想像以上に大きなものだ。
それぞれの「正しい」の価値観も違うなか、自分の正義を押し付け合うことは戦争以外の何物でもないでしょ。
人のネガティブな感情については理解しているつもり。
俺の中にも大きくドス黒いそれがある。
それはもう、恥ずかしくて人に見せられないような。
黒さには自信がある。
しかし、思うんよ。
深い漆黒のような闇を抱えている人の中には、きっと同等の光も隠されてる。
この世のものはすべて対になって存在していると思ってる。
深すぎる闇だけが存在するということはきっとないよ。
深すぎる闇を抱えるに至った経緯の中で、おそらく真っ白なピュアすぎる心が先にあり、繊細すぎて傷つきすぎてしまい、その結果必要以上に黒く染まってしまったのではないか。
今となっては黒に塗りつぶされたその場所から光のような白を見つけ出す事が困難になってしまっている人もいるんだと思う。
でも、確実に存在していると俺は思うし、完全に失われる事もないと思ってる。
そこに闇が存在している限り、対となる光の証明でもあると思うから。
ネガティブはネガティブを引き寄せる。
ネガティブなことで共感を集めるのは簡単だが、それにハマるとよくない。
きっとそれは麻薬だ。
メンヘラの人が「探さないでください。」とか、「今までありがとうございました。」と、一言だけメールを送ってきて気を引こうとするあれあるじゃん。笑
あれは、それの成れの果てだと思ってる。
意味深なことを人に言って、相手が大慌てしてくれるその度合で自分がどれだけ大切に思われているか計ってる。
でもそれは沼で、最初のうちは本気で心配してくれた人達も、何度もやられては「またか。。」となって当然。
その結果、大切に思われていないと感じるようになり、実際に大切に思われないようになってしまう。
あと、自分の安心感を得るために人の心と時間と、時には労力をぞんざいに扱ってしまっている事に気づいていない。
ネガティブな感情が原因で、本来失わなくていい人間関係を失うことになる。
安心感は、ネガティブな感情をこねくり回して作るものじゃないよ。
Twitterは、どこかネガティブな感情の吐き出し場所のようになってる。
裏アカを作ってまで吐き出す人が相当数いるということから、その必要性や重要性を感じる。
生きるのに必要な人にとっては、”今は”大切なのかもしれない。
死ぬよりいいと思うから。
俺個人としては、出来るだけSNSをネガティブな感情の吐き出し場所にしないように心がけてる。
ネガティブな感情はこのブログで十分だし、小出しにするよりドカンとここで吐き出したほうがいい。
SNSは仕組み上、フォロワーのタイムラインに乗ってしまうので幸せな誰かの時間を俺のネガティブな感情が邪魔をしてしまうんじゃないかと思って気を使う。
ブログなら、クリックしなければ見えることはないもんね。
だから読みたい人は読み、読みたくない人は読まなければいい。
ネガティブな投稿をする時、人は誰かに見てもらいたいと思うと思う。
誰も見ないようなブログに書くより満足度が高いわけだ。
何に対してネガティブだと感じるかについても、価値観によって違う。
だから場所をわきまえて言葉を選び吐き出すというのは大切な事なのかもしれない。
俺も、このブログでは出来るだけ黒い感情も出すようにしてるしね。
Twitterは光も闇も関係なく出す場所になってるね。
そう捉えてる。
だから誰かがネガティブなことを書いていても、そうなんだなぁと思うくらい。
俺が作るグループでは、ネガティブな感情でつながらないことを心がけてる。
ネガティブなコメントを書いたり正義感の押しつけをしてきたり、Twitterなどのパブリックな場所なら分かるけど(俺のアカウントにはまじで不要だけど!笑)、俺が作るグループの中では制限してる。
グループの趣旨、つまり世界観を大切にした場所でありたいから。
何かに対して、当然ネガティブな感情を持つというのは普通のことだ。
そのことと、垂れ流していいかどうかは別の話でしょ。
場所はわきまえてもらう。
感じるのは自由。
ただ、俺のグループはネガティブなことをぶちまけたい人が集まる場所ではない。
快適に心地よく楽しみたい、そのためにみんなで快適な空気感を作っていける人達の集まり。
それが出来ない人は、容赦なく躊躇なく退会させるし、自分の感情を抑えられない人はブロックする事もある。
世界観のある場所を作るというのはそういうことだ。
それくらい毅然とした対応をとってしまうと、当然理不尽だと感じる人が出てきたり逆恨みされることもある。
それでもやりたいか、やれるかが世界観を持ったグループを作れるかどうかの重要な部分となる。
ランダムな人達が入ってくる中、世界観を統一する、つまり一つの価値観を軸に関わっていくなら、当然関われない人は出てくる。
こういう世界観を作りたいと理想を掲げたなら、関われない人が出てくることは覚悟しなければならない。
自分を貫くということは、関われない人が必ず出てくるということだ。
とても悲しいことだけどね。
ときには、大切な人が離れていってしまうこともある。
俺から大切だと思っている人を遠ざけたことはほとんどない。
致命的に価値観が合わないとなれば、どうしようもないことがある。
コンセプトに沿わない人が入ってきてしまうということは、当然あること。
そこに文句をいうより、さっさと対処してしまったほうがいい。
世界観のないコミュニティに魅力なんてない。
誰でも作れる、どこにでもあるコミュニティに残る理由もない。
特別なコミュニティにしたいなら、自分の手で形作り受け入れる人を選ばなければならない。
これは、俺のもともとの性格が狭く深く人と関わるタイプだから感覚的にやれてるのかもしれない。
学生時代、最強の仲良しグループにつまらないやつが入ってきた時、薄まった感じがした。
あの感覚。
人が増えれば増えるほど薄まっていくコミュニティではダメだ。
どれだけ人が増えようが、明確な価値観の軸を提示していく。
逆もまた然り。
どれだけ人が減ろうが、確かな軸にある価値観は変えない。
そのために、俺が作るコミュニティの大前提となる部分は子供の頃から揺らがない癖のある部分を使ってる。
縦軸も横軸も奥行きも、すべての位置がピタリと当てはまった人物がこだわりを持ってくれたなら幸い。
そんな人達を呼び寄せるなら、尖ったピンポイントな価値観が必要だ。
偏っていてもいい、変でもいい、出来るだけ自分の奥底にある部分を出したほうがいい。
出せる部分には限界があるけどな。
ほら、闇深い人間だから。
正しさを押し付けない関係性、人と自分は違って当然だと理解している人達で、違いを受け入れながら関わっていけばいい。
限界はあるけどな。
俺は俺を軸にコミュニティを形成する。
気に入る人は入り、気に入らない人は入らなければいい。
俺も関わる人は選ぶ。
お互いに選ぶんよ。
選び、選ばれた関係性はコミュニティであろうと、1対1の関係性であろうと尊い。
誰でも受け入れるわけではない。
だからこそ、関わる人にこだわりが生まれる。
近い存在であればあるほど。
心地よく関わっていける人達は宝だ。
善意に満ち溢れた優しくあたたかい人達が俺の周りに多いのは、選び選ばれてきたからだ。
誰でもいいわけじゃないんよ。
特別感を持って接する。
そうしたいと心から思えるから。
そんなふうに感じさせてくれてありがとう。
心の底から、上っ面ではなくそう思わせてもらえる事が幸せだ。
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