”普通”とか”一般的に”というのは、統計的に”多い”、または多いだろうと推測されることをいうんだと思うんだけど、もともと俺は自分の感覚しかよくわからない人間で子どもの頃は本当に親は大変だったと思う。
時々、親戚に昔話しを聞かされる事があるけど、子どもの頃の俺はやはりメチャクチャだったのだと思う。
”普通”という感覚は、そもそも俺の考えや感じ方とは関係ないので俺からしてみれば分からなくて当然だと今でも思ってる。
ただ、それでは社会と関われないので独学で心理学を学んでみたり人と関わる中で実体験から学んでみた。
だからだと思うんだけど、反応が無い時にとても不安になる。相手がどう思っているのか全くわからないから珍しくネガティブな感情になったりする。難しい。
反応が無い恐さって、恐いと感じる人以外は分からないのだと思う。だから楽観視してるのだと思うけれど、継続出来なくなるほどの恐さだ。
相手からすれば「え、今のリアクションするほどの話じゃなくない?」くらいに感じることもあると思う。そう思われる事自体も恐い。
一旦この感情に陥ると精神的にグラついてしまうので極力人と関わらないようにする。いい話にならないから。
”普通じゃない”という事が昔からコンプレックスでもあり、生きにくさの正体でもあると思ってた。最初から空気が読める人間ではなく、後天的に身に着けたものなので、空気を読むというよりは”推測”に近い。
これがこうだから、おそらくこれくらいの確率でこうだな。。っていうのが自分の中での空気を読むということ。
時々的外れになってしまう事だってある。基本的に反応を見たり論理的にズレがないかで脳内で補正をかけながら認識をしていくという形なので反応がないというのは素材がないという事なので混乱するのだと思う。
たくさんの人達が何を考えているのか分からない状況っていうのは恐いよ。いや、正直アンチとかが何をどう思ってようが関係ないんだけど、心を開いた人たちがどう思っているのか分からない時が辛い。悲しくて寂しい気持ちになったりする。
相手からすれば別にどうってことないことなのだろうけど、こういうのって心の偏りがもたらすものなので普通の人には理解し難いことなんよな。
子供の頃は泣き虫で、こういうよく分からないことで突然泣いてしまっていた。だから根明の人が苦手だった。こういう感覚を理解しようともせずにバッサリ切り捨てるじゃん。
大人になって、精神的に不安定にならないように危ないと思ったらバランスをとるようにしてる。じゃないと人が恐くなってしまうのだと思う。
猫が好きなのは、きっと猫の人との距離感が好きだからなのだと思う。
人が恐くて警戒して距離をとっているけれど、本当は甘えてみたかったり離れたりくっついたりするその在リ様に共感しているのだと思う。
嫌いな人に傷つけられる事ってあまりない。弱い部分を見せないから。マジで他人だし、同じ世界の人だと思ってないし関わらないから。
大切にしている人達の一挙手一投足に心乱れてしまう。これは何歳になっても変わらないのだろうな。
ネットでの繋がりであろうと、本当の仲間や本当の友達になれたらいいなっていつも思っているから。顔が見えなくても本名なんて知らなくても関係ないでしょ。
存在と存在の繋がりだから。姿形も年齢も何もかも関係なくて存在がそこにあって、ネットだからこそ心だけで繋がってる。
だから反応がないという心が見えない状況で不安になるのは当然の事なのだと、俺の感覚では思う。
そして少しまた自分の本心に気がついた。一人ぼっちになってもしょうがない、その覚悟を決めたところからスタートした今のスタンスだけど、大切に思っている人達からは嫌われたくないなと思ってしまっている自分がいた。
当たり前の感覚だとは思うんだけど、でもその事自体がこじらせてしまう原因になってしまうのかもしれないと思った。
たくさんの人と関わってたくさんの人達とすれ違ってきた。その中で本当に仲良くなれる人達って俺にとっては特別で、誰でも仲良くなれるわけじゃないから。
俺はダメなとこも悪いとこもいっぱいある人間なので、人から嫌われる事があってもしょうがないと思ってる。それでも出来るだけ本来の自分で人と関わっていきたい。
でも、大切な人達の前ではカッコつけたかったのかな。大切な人達には自己中とか傲慢とか思われたくなかったのかな。
不器用ながら、本当に大切に思う気持ちがあるから、それを信じてほしかったのかもしれない。
本当の気持ちを誰かに伝えるとき、すごく無防備な気持ちになる。自分的に重要な話をしている時にちゃんと聞いてくれていなかったら、なんだかすごく腹が立つ。
相手に求めすぎているのだと思う。めんどくさいやつだ。大切な話をして反応がなかった時の寂しさって、なんとも表現しにくい。
いろんな事が一瞬で頭の中を駆け巡って不安定になる。
相手からすればどうでもいいよな。。重要だと思ってるのは俺だけだよな。。大切にしていることをできれば大切にしてほしいな。。とか。
一緒に遊ぶ人と自分自身の居場所を作れたらいいなっていつも思ってる。それが俺の活動の根本にある。
だから大切にしたい事は出来る事なら同じように大切に思ってほしい。じゃないと、軸がおかしくなる。
何も人に押し付けずにずっと楽しくいられたらいいのに。
たくさんの人が楽しめる場所をいつかちゃんと作れたらいいな。その中で、俺自身も心から楽しみたいよ。
すごくめんどくさい事を書いてると思う。そんな客観視もどうでもいいな。
素直に感じた事を書くのがこのブログだから。
深い部分で人とつながるって難しいよな。
もともと自分の気持ちしか分からなかったどうしようもない人間が、人の気持ちをもっと理解したいと思って生きてる。
今でも下手だなって思う。もっと上手になればきっと、言葉も少なくて済むのだろうな。
仲良くしたい人と仲良くしたい。大切にしたい人を大切にしたい。ただそれだけなのに。
そういえば、俺は昔から人を大切にするというやり方がよく分かっていないと思う。自覚がある。
心の中ではすごく大切なのに平気で連絡とらなかったり会わなかったりしてしまう。
あれなんなんだろ。相手からすればそんなもん信じられるわけないよな。
目の前の事でいっぱいいっぱいすぎるのかもしれない。
猫ちゃんもきっとそうなのだと思う。
だから気持ちがわかる。
だから好き。
上手に出来ないところもたくさんあるけど、自分は自分としてしか生きていけないので、出来るだけありのまま生きる。
心の偏りがいつか、水が熱で蒸発するように昇華していくといいな。
心の偏りはきっと、過去の悲しかった出来事を忘れられずにいるから存在しているのだと思うから。
何度でもぶつかって泣きながらでもいいからいつか難しかった過去と仲直りできればいいな。
普段、ネガティブな気持ちで過去を振り返る事は少ない。ほとんどの事は忘れているし、思い出すきっかけすらない。
不意に何か起きた時に同じ出来事を思い出したりするので根深く悲しみがずっと存在してんだろうな。
そして不安定になった時に追い打ちをかけてくるんだろうな。
俺はいつも大好きな人達の事を考えながら生きてる。アンチの事を考えて暮らす事は今のとこない。
心が大きく動かされるのもやはり大切だと感じている人達のことだな。
いつも大きな態度で人と接してるけど、今みたいな心理状態の時は小さい子供と変わらない。
心が動くのに物事の大きさって関係ないな。
くたびれてしまった時は出来るだけ眠る。
出来ることなら美味しいものでも食べてお風呂に入って寝るのがいいね。
ちっぽけな自分を再認識した。
自分らしくもあると思った。
良くも悪くも俺は俺でしかないな。
しょうもなさも全部ひっくるめて。
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