誰かに見られている自分と、誰にも見られていない自分には差がある。

誰にも見られていない自分の方が自分らしい。

きっと、本当の自分自身というのは誰にも見せられないものなんだろうな。

 

何をやってもよくてどこへ行ってもよくて、なんでもできるとしたら何をする?

その質問を考えるのって結構難しいよね。

すべてのハードルを取っ払っているつもりでも結局は自分の中のタガは外れることはない。

 

人は想像できないことをやることはできないんだ。

想像できないことをやろうとすら思えないようにできてる。

当たり前といえば当たり前なんだけど。

 

時々さ、宇宙の中に地球があってその中に自分がいるのではなく、自分の中に宇宙があるのではないかと考える。

なんというか、自分の中に宇宙があってその中に地球があって更にその中に自分がいてその自分の中にも宇宙があっての無限ループ。

きっと、本質というのは人間が想像できるほど簡単なものではないのだと思う。

本質っぽいものを掴んだ気になっても、結局それは誰かが過去に話した概念を無意識に覚えているだけだったり。

 

正解がないのなら(辿り着けないのなら)自分が正解と決めたものが正解でいいんじゃね?と思う。

だから自分が良いと思ったなら良いというルールの中で生きてる。

それが自分にとっての本質に一番近い気がして。

 

 

ここ数年、不快に感じることが少なくなって。

年齢を重ねると共に余裕が出てきたのかなぁと思ってたけど多分違う。

不快感を感じる人と極端に関わらなくなったからだ。

おそらく自分自身はそんなに変わっていなくて、意図的に環境を変えたので快適になっただけだ。

 

というか、ほとんど誰とも直接連絡をとっていない。

自分の中で人間的に好きだと思えるような人たちともまったく。

 

振り返ってみれば昔からそうだったのかな。

自分から人に連絡するのが苦手で寄ってきてくれる人と楽しんでた。

 

今から考えてみると、よくそんな感じで友達ができたよな。

自分が思ってるより世界は優しい。

 

この一週間くらいで、偶然、人に対して不快だと思うことが複数回あった。

あぁ、自分の器が大きくなったわけでもなければ世界が平和になったわけでもないんだよな。と、実感した。

 

まったく不快に感じることなく過ごす日々は、寝る直前に感謝の気持ちが溢れ出る。

その感覚が大好きでさ。

誰かのことを恨んだり嫌いだと感じることなく幸せに満たされるんよ。

そういうのが一番いい。

結局誰かのことを嫌いになるのって、頭の中を嫌いな人でいっぱいにする作業じゃん。

意味ないよね。

どうせ関わらない人なのに。

 

嫌いな人のことをいつまでもグチグチ言うだけの生産性のない人間にはならないようにしようといつも思う。

もっと面白いことたくさんあるからな。

その分、瞬間的に感じる怒りや不快感は強い。

ストレスには弱いほうだと思う。

ある程度以上のストレスがかかったらシャットアウトしたりもする。

 

不快な相手のことを人間として見なくなったり。

感情を動かさずに淡々と業務的な態度で接したり。

自動的にそうなるようになってる。

そうじゃないと心が追いつかないんよな。

強い人間ではないので。

 

仕事もプライベートも極力不快な人と接することなくやっていきたい。

過去に相手を選ばず接してきた経験をしたからもういいだろ。

一度は最悪の相性の人と接してみる経験は大事だと思う。

誰とでも関われるわけではないのだと実感させてもらえるので。

 

 

自分の思う生き方をやってみよ。

どんなふうに生きたっていいのだから。

何にもとらわれることなく。

寂しくなってしまうこともあるかもしれないし、もっと人と関わったほうが良かったと後悔することがあるかもしれないけどさ。

 

優しい人が数人関わってくれたなら、自分にとっては贅沢だと思えるほど嬉しいことだ。

どうでもいい人と100人関わるより人間的に好きだと思える人、数人と関われるほうがいい。

俺は相手の写し鏡のような存在。

 

俺を優しいと思う人はその人自身が優しいからなんよ。

俺を短気とか恐いと感じる人は、その人自身が俺にそうさせてる。

基本的に自分から相手を攻撃したいとは思わないしね。

 

見る人によって俺の印象って大きく違うんだろうな。

俺に限らず誰でもそうだよな。

だから理不尽な態度をとられた時には自分に何か落ち度があったか考えるようにしてる。

 

 

この辺にしとこ。

眠くなってきた。

時々、あてもなく無性に何か書きたくなる。

終わり方も考えずに気楽に書くのがいい。

気ままなのがいい。

それでは。