無性に何かを書きたくなることがある。

心の中でザワザワしだして、落ち着かなくて解消の方法がわからなくて。

走り出したいような叫びたいような、でも、それとは違うなにか。

 

いつも滑り出しはそう。

こんな感じで書き始める。

1時間ほど書いたら満足して、人知れず下書き保存。

そしてそのまま忘却へ。

今回はどうだろう。

心の機微を残しておきたいのだけれど、うまくいかない。

どこかの誰かの目に映る可能性をせめて残してあげたいのに。

誰かのためにではなく、刹那的な、一瞬一瞬の、昨日の、さっきの自分のために。

 

誤字も脱字もどうでもよくて、文法だってどうでもよくて、意味なんて分からなくて良くて、ただただ独りよがりな感情や感覚を残しておきたいのに。

 

僕は多重人格者ではないけれど、僕の中にある感覚を人格化するようにしてる。

ドス黒く欲望まみれなやつ、善を重んじるて汚したくないやつ、どこまでも卑怯でズルくて嫌われて当然なやつ、幼くてどうしようもなく傷つきやすいやつ。

どれも自分なんだなと思う。

どれかじゃなく、全部。

黒も白も青も。

一緒くたにして灰色と呼ぶのではなく、一つ一つの色を見たい。

それが人間のどうしようもなく純粋な存在証明な気がして。

 

失敗は恐くないが、人にあれこれ思われることが恐い。

とくに、逆らえない関係性の中では恐怖でしかない。

それでも社会に溶け込む中で、恐怖から目をそらして「自分は大丈夫。」とやっていくしかない。

 

その結果、インターホンが鳴ったり電話が鳴ることがどうしようもなく恐くなってしまったり、人と関わることが恐くなっていく。

「可能性」を知ってしまったら、戻れなくなる。

人は恐い。そう思い始めたら、黒い海の波が少しずつ心の中に満ちていくように侵食されていく。

 

一方、どうしようもなく白い「善」に心救われることもある。

恐いのも優しいのも「人」だ。

僕が「どれか」だけじゃないように、誰かも「どれか」だけじゃないんだ。

 

昔から人の心が本当の意味では分かっていなかったんじゃないかと思う。

うすうす感づいていながらも、パターンから必死で推測して導き出していたように思う。

どの可能性が正しいかなんて、AIとやってること同じだ。

だからAIに謎の親近感がある。

 

自分は、人間は、未来のAIの劣化版でバイオ由来のロボットなんじゃないかって。

あながち、的はずれな考えじゃない気がしてる。

現実だと思っているものが仮想空間で、すべてはデータ上の出来事…という可能性だって案外可能性低くないと思ってる。

自分の小さな頭の中では、否定できる要素が少ないから。

 

夢の中で夢の中にいると気づく時、「雰囲気」なんだ。

現実と夢の中で感じる雰囲気の差異。

明晰夢を見る時、見破るポイントはこれだと思ってる。

そして、「夢の中で今自分が夢の中にいるんじゃないか?」と思う概念そのものを、夢の中に持ち込めるかどうか。

夢の中にいるんじゃないかと疑えるのは、きっと、普段から「現実の中にいるのか?」と無意識に定期的に確認してるからなんだと思う。

そのクセが夢の中で発現しているに過ぎないと思ってる。

 

一般的な人がバカバカしいと切って捨てるような概念も、それ一つでは無意味に感じるかもしれないが、想像を超えた先で繋がって形になることってある。

無関係な一つ一つ、自分でも理由がわからないけれど「感じる」こと、誰に馬鹿にされたって否定されたって大切にしていいんだ。

 

静かな部屋でコトコトとキーボードをタイピングしながら思考と向き合う時間。

この時、今が何時かわからなくなることがある。

集中してる時、人は時間を超える。関係なくなる。

 

よくあるんだ。

電動自転車で仕事用の撮影に向かっている時、自分で自分の姿は見えないから、今、高校時代に一瞬時間が戻ってても気付けないな。と、心の中でニヤニヤすることがある。

そこから数珠つなぎで思考は過去に引き戻される。

「そういえばあの時…」と。

移動しながら思考の中を隅々まで探求するのが大好きだ。

 

現実の世界ではテンポよく自転車を漕ぎ風景は変わっていくけど、ふと街の匂いと「あの頃」がリンクする。そしてより深く思考へダイブしていく。

多重露光のように過去と今の風景と感覚がダブりちらつく。

 

移動するだけでこんなにも楽しい。

そして夢の中では常に「夢の中にいるか気付けるか」というゲームを毎日やってる。

明晰夢を見るには快適すぎないのもコツ。

あと、リアルを夢に持ち込まないことも。

 

窓を開けて換気している時に、うたた寝をしてしまうことがある。

そういう時に限って、夢の中にいると気付きようもないようなリアルな夢を見る。

「現実かと思った!」と、変な感動を覚えることもしばしば。

リアルすぎる夢はそれはそれで面白い。

そういう時は、なんだか書き残したくなる。

 

夢日記をつけ続けると精神が崩壊するという都市伝説があるが、もし本当にそうなら少しだけ心当たりがある。

何度かリアルだった夢に感動してメモったことがあるが、メモった夢は今でもある程度思い出せるんだ。

記憶として一部が定着してる。

思い出になってる。

 

これが蓄積され、現実世界での出来事が夢の中の出来事より薄くなってしまった場合、区別がつかなくなる可能性はゼロではないように思う。

ただ、夢日記をつけようなんて思う人は明晰夢を見たい人か、純粋に夢を見るのが好きな人。

どちらも夢にこだわりがある人だ。

明晰夢を見る人は、そもそも夢の中で現実との違いに気付ける人なので、リスクは少ないんじゃないかと思う。

純粋に夢を見るのが好きな人の場合は分からない。

でも、夢を見るのが好きということは現実にはない魅力を夢に感じてるということだと思うので、これもリスクは少ないように感じるがどうだろう。

 

いつもはこれくらいで満足して下書き保存して公開することなく、書き殴った言葉は誰にも知られることなく僕から忘れ去られなかったことになる。

今回はこれを書いているということは残せているだろうか。

こうして書く時間を無意味だと思わず、残せたらいい。

眠れない夜に、顔も知らない誰かが偶然辿り着くことを願って。