自分の器の小ささを露呈するようなことだけど、アドバイスなんかいらないから好きにさせてくれと昔から思い続けてきた。
相手が親切で言ってくれていたり成長を願って言ってくれていることもある。
それでも不要だと思ってしまうのだからどうしようもない人間だ。
エゴの塊でしかない俺は、やりたいようにやれればそれでいいんだ。
壁にぶち当たったら調べて乗り越え、その過程で成長する。
そんな成長の仕方しかできない。
なんでも独学でやろうとするのはそういうこと。
遠回りだし論理的じゃないしマジで損しかしない考え方なのは分かるけど、人から上から目線で何か言われることがムカついてしょうがない。
いい年してこんなこと書くのも恥ずかしいんだけどさ。
でも、それが自分自身という存在であり今まで変えたくても変えられなかったことだ。
アドバイスをしてくる人の中には、アドバイスをして感謝されようとする人が一部いる。
そういう人はアドバイス不要だと伝えると怒る。
離れていく人も少なくない。
こちらが合わせてありがたく意見をちょうだいすればいいだけなんだけど、自分の中でアドバイスをしてくる人の意見の8割以上はすでに自分で気づいていることだったり、分かってるけど今はこっちがしたい!と思ってやってることだったり。
どこまでやればミスでどこまでやればオッケーかのラインを探っているときもある。
自分の中でテーマがあってやってることもあるのに、分かっていないと思われているのが心外なんだろうな。
そんなことも分かっていないと思われているのかとなめられてるのがむかつくというのもあるんだと思う。
でも、そこに感情を持っていかれてしまうのは、ある種の劣等感・コンプレックスみたいなものがあるからなのだとも思ってる。
なんとも思っていなければ、アドバイスが的外れでも聞かなければいいだけの話なので。
心がざわつくというのは、きっと過去に自分の中で消化できなかったことがあったり、ひどく傷ついた経験があるからだ。
具体的にどれだと特定できないのは、軽くて忘れているのではなくてずっと覚えていたら生活できないからなのだと思う。
だから時々、なんでこんな大きな出来事を忘れていたのだろう。。と思うことがある。
アドバイスをされて心がざわつく理由には複数思い当たりがある。
けど、結局、現段階では不要。
分からなければこちらから聞くし、9割以上のことは自分で調べて解決してると思う。
かわいくない人間だね。
かといって、完璧になんでもできるわけじゃない。
アドバイスをしてくれる人よりスキル的に劣ってることもよくある。
だからマジで意味わからんよね。
でもこの問題は自分の中で解決するまでは、アドバイスしまくる人のことを嫌いになってしまいそうだからアドバイス不要だということで一貫して伝えることにしてる。
アドバイスをして感謝されることで承認欲求を満たそうとする人は論外。
そういう人の特徴は、アドバイスしているのに的はずれなこと。笑
なんで分かってないのにアドバイスしようと思うんだろう。。と思ってしまう。
その時、自分の優しくない感情に嫌でも気付かされてしまうんよな。
もっと相手に優しく感じることができればいいのにと思う。
器を大きく持てば、人間なんだから承認欲求を満たしたいというのは当然なのも理解できるのに。
そして、たった一言の「ありがとう。」や「参考になったよ。」で相手の心をあたためられるというのに。
そのことが分かっているのに、そうしてあげられないのは自分の心の狭さなんだよ。
精神状態が不安定な時にこういうことが起こると、一気に自己嫌悪に陥ったり心の置きどころがなくなってしまう。
相手のせいにも自分のせいにもできない、またはしてしまうことでどんどん深みにはまる。
言いたいことを直接相手に伝える俺ですらこんなんなのだから、伝えられない人はもっと辛いだろうな。
「アドバイスされるうちが華よ。」みたいなこと言う人いるけど、今のとこまだ不要だと思っちゃうな。
子どもの頃からずっとずっと好きなようにやりたかったんだ。
誰のいうことも聞かず、誰にも指図されずに。
その願いを今でも追いかけてるんだと思う。
親に抑圧されすぎたわけではないと思うんだけどね。
でも、できないこともたくさんあった。
それは親のせいではなくて、多分平均的な家庭に育ってもできなかったことは多かっただろう。
欲が強すぎるんだ。
心が落ち着かない。
だから今これを書いてる。
心が不安定になると何も喋れなくなる。
無気力になり、ちょっとしたことで心の中が砂嵐になる。
そんな時は、きっと毛布にくるまって眠るしかない。
猫のように丸くなって。
今日は心が不安定な自覚はなかったのにな。
不意に来た。
これ、人と一緒に暮らしてたら大変だろうなと思う。
自分一人だからまだ好きなように治せるけど。
誰かが家の中にいたらそれだけで気を使わせてしまうだろうな。
そんなことを考えることすら煩わしくなってしまう。
優しくなくなる。
自分に余裕がないときって嫌だね。
人と住めないだろうなぁと思う大きな理由はこれだな。
猫となら一緒に住みたいけれど。
猫は喋らないからいいんだろうな。
皮肉なんか言われた日には耐えられなくなると思うから。
都合のいい理由で好きなのかな。
だったら最低だけど、一部それはあると思う。
猫はワガママでいい。
感情や感覚は知りたいと思うこともある。
でも言語ではつながらないほうがいいと思う。
人間にとって良いことばかりではないと思う。
そう感じるのは、上っ面を愛してるからなのかな。
猫という存在が好きだけど、特定の猫に一途ということではない。
飼ってもいないし。
猫を飼ったなら、死んだ時耐えられなくなるくらい愛してしまうと思う。
だから飼えない。
好きになりすぎてしまうからだめだ。
時に寄り添い一緒に眠り、かわいい姿を見せてくれる、そんな存在を愛さずにいられるわけない。
イタズラをして怒ることもあるだろう、でも、その一つ一つのことが全部愛しい日々に変わってしまう。
猫にすらそんなふうに思うのだから、人だったらなおさらだよね。
いや、人の場合は言葉が通じてしまうからその時点で難しいと思うんだけど。
喧嘩ばかりになるあの感じ、苦手だ。
好きなのに喧嘩ばかりになってさ。
大切なのに大切にできなくなる感じ。
昔、なんどかそんなことがあった。
自分のことすらよく分かってないんだろうな。
愛し方も愛され方も心の置所も解決方法も。
心が不安定になるときってさ、なんか「暗闇の中で自分が本当に存在しているのか分からない」という感覚になる。
真っ暗な中で自分の手のひらすら見えないあの感じ。
軸が分からなくなるんだろうな。
圧倒的にちっぽけな存在だと感じてしまって、じゃぁ、俺が何かやってもやらなくても同じじゃん。なんて思っちゃうんだろうな。
どうしようもない気持ちになることがある。
子どもとか若い人でもすごい人ってたくさんおるじゃん。
俺は年だけ重ねて何ができるんだろうみたいな。
できることといえば、やはりやりたいようにやって生きたいように生きることだけだと思うんだ。
自分が自分を全うすることが唯一できることであり、その中で副産物的に関係性が生まれたり何かを生み出せたり。
自分を生きるということだけなんだな。
優先順位が、何かを生み出すとかそっちになっちゃうと、どこまでもスキルが高い人が無数にいて無力感にさいなまれることになるでしょ。
人と違っていい、理解されなくていい、でも自分の中で心から笑えたり楽しいと感じることをやり続けよう。
人から見て面白くなくていいから、自分で自分を楽しませてりゃいいんよ。
どうせ、おもてなしの精神すらないクソ人間なんだろ。笑
そんな中で、心から感謝する気持ちであったり大切に思う気持ちだけは心の底から持とう。
それだけあればいいよ。
心から感謝する気持ちや誰かを大切に思う気持ちが、行動と伴わないこともあるんよ。
それはもう自己中心的な人間なので諦めてくれ。笑
できる時に何かできたらいいなぁとは思うけど、日々を生きること以外考えられていないのが実情。
その代わり、本心で心の底から気持ちを持つ。
他人からすれば全く意味がないことかもしれないけど、自分の中でそれが大切だと思ってる。
最後の砦的な。笑
誰も見ていないところで、ありがとうと口に出すことがある。
その時、本当にありがとうと感じられてるんだなと実感する。
ご飯が食べられること、大きな不安なく眠れること、少数ながら繋がってくれる人達がいてくれること。
自分にとっては特別なことでさ。
すごく嬉しくて。
普通の人からすれば普通すぎることだとは思うんだけど。
生活が厳しくなった時は質素になっていくからな。
だから食べられる時に感謝の気持ちが自然に生まれる。
まったく当たり前じゃないんよ。
心が不安定な時、いろんな解決方法があるのかもしれないけど、俺の場合はとにかくこうして思い浮かんだことをそのままツラツラと書き続けることだな。
下手でいいから頭に思い浮かんだことを全部書く。
そうしているうちに心が落ち着いてくる。
動画、文章、写真、音楽、絵、すべて表現方法が違うけど、すべて得意な伝わり方があると思う。
文章というのは、キザな感じになりにくいのがすごくいい。
言葉にすると恥ずかしくなることも、表現したいように表現できるのが気に入ってる。
ポエマーかよwwと茶化されそうなことも、大真面目に書きたい時だってあるじゃん。
書いたらだめなことなんてないんだ。
どう表現してもいいんだ。
口に出すと不自然になるようなことも文章ならしっくりくるんよな。
そこが好き。
もっといろんな表現をしたいけど、殴るように書けるのが好きなんだろうな。
文章は。
書きなぐるとはよくいったもので、まさに殴ってる。
ぶつけてる。
その感覚が好きだ。
同じことを表現するにしても、人の数だけ選ぶ言葉の組み合わせが違う。
その多様性も好きだ。
上手い下手はどうでもいい。
書きなぐれることがだいじ。
ある種の暴力性のような衝動を抑えるには、ある種の自傷行為に近いことをしたほうが収まりやすい感じがある。
思春期男子がキレて壁殴るのは、カッコつけてたり理解してもらいたい表現でもあるけど、自傷行為の一つでもあると思う。
その痛みには頭を冷やす効果が多少なりともあるんだろうな。
リストカットをしちゃう人も血を見ると落ち着くっていうよね。
昔仲が良かった子がリスカしてて。
まったくおかしいとも変だとも思わなかった。
今は、そうしたいんだなと。
死なないならいいんよ。
跡が残ってしまったら自業自得にはなっちゃうけどそんなの本人が一番考えてる。
死なないために必要なんだなって理解してた。
誰しも心の拠り所がある。
外部にない人は内部に持つ。
それが俺の場合は文章を書きなぐるということなだけで。
本質的には俺は自分の言葉しか書けない。
もう4300文字も書いてるのか。
誰かに理解してもらいたいのかな。
内なる気持ちを書いて浄化しているだけなのかな。
行動の理由は自分にも分かりにくい部分はあるけど、きっと、思いつくこと全部なんだろうな。
自分の心の内面をありのまま書くことによって、世界のどこかの顔も知らない誰かの目にたまたま止まって、その人の「自分にしかわからない」と思っている部分の共感の声になっていればいいな。
それが目的ではないけど、副産物的にそうなるといいなという気持ちはある。
胸を掻きむしるような感情をどう表現したらいいか分からない人の代弁者となっていたらいいな。
世界に自分によく似た人が少数でもいるんじゃないかと思う。
自分の心も、誰かの心も、穏やかで満たされたものであれ。
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