誰とでも”ちゃんと”関わりたいと思えるほど、俺の心は広くない。
狭く深く人と関わりたいと思う人間なんて、そんなもんだと思ってる。
“狭く深く”関わるデメリットとメリット、両方について理解しているつもりだ。
交友範囲なんて広いほうが「可能性」も大きくなるじゃん。
でも、そうしないのは狭めている「可能性」もあると分かっているから。
一度、浅く広く人と関わろうとしてみた時期がある。
性格的に無理だった。
薄っぺらい人と、心から関わりたいと思える人、同じようになんて関われないよ。
これは食べたいと思うものなら毎食それでもいいと思える自分の性格通りだと思う。
毎食同じでもいいんだ。
いつか飽きるだろうけど、その時はその時。
こんな性格だから、モノによっては常人では気づかないようなレベルで気付けるようになるものもあると思ってる。
かといって、職人肌というわけでもない。
単純に好きなものは心から好き。
好きじゃないものにあえて触れる意味が分からないというだけのこと。
極めたいという探究心とかそういうことではないんよな。
狭く深く人と関わるのも同じこと。
自分が関わりたいと心から思える人は限られてる。
そして、それは仲の良さに比例しない。
あと、心から尊敬できる人も限られてるんよ。
これも年齢や立場などに比例しない。
どれだけ崇高な役職名を持っていても正直どうでもいい。
ホームレスであろうが子どもであろうが、「こいつすげぇ。。」と心が震えたなら、その人間は尊敬の対象になる。
猫ちゃんという存在が好きなのも同様。
ある日気付いた。
猫ちゃんという存在を心から尊敬しているのだと。
猫ちゃんには個体差もあるだろうけど、種族としてある程度一貫性がありその平均的な特性を愛してる。
存在として学ぶべきことがたくさんあるんだ。
中でも、相反する感覚を常に同時に持っているところが好きだ。
のんびりしているけど好奇心旺盛だったり、すばしっこいけど怠けたい時もあったり。
その全てが愛される要素に溢れてる。
役に立つから愛されるわけではないんだよな。
いや、厳密にはメンタル的に役に立っていたりするわけなんだけど、本人(本猫?)は至って平常運転。
思いやりを持っているわけではないのに人間の想像力に補完させて愛されてる感じがある。
そして人がやりたくてもやれないことを平然とやってのける。
「なにもしない」って、想像力がある人にとって実は一番できないことかもしれないんだ。
こわいじゃん。
先のこと考えると。
それでも、野良猫ちゃんはお腹を空かせながらでもいつも寒空の下、自分らしくいる。
そういうところがすごく好きだ。
話がずれた。
今回、これを書こうと思ったのは、関わりたいと思っている人の身内に不幸があった。
普段から連絡をとったり踏み込んだ話すらあまりしたことがない人ではあるんだけど、それでも関わりたいと思える魅力を内包している人。
数人でコミュニケーションを楽しんでいる中でそのことは発覚した。
どんな言葉でさえ、軽々しく感じてしまうんだ。
思いやりを持ってかけてあげたい言葉のその全てに。
心のままをそのままぶつけられたらいいのに、本心なのにまるで社交辞令のように思われそうで。
そんな感情がもどかしくて。
真っ直ぐに伝えたい。
俺は誰にでも思いやりを持てる人間ではないけど、一部の人に対しては強く本心で思いやりの気持ちを持つことがある。
これは、俺の周りの素晴らしい人達が俺に対して心からの思いやりを持って接してくれたから学べたことだと思うんだ。
冷たい氷のような心を溶かしてくれた人たちのおかげ。
いつも、誰に対してもこんなふうに思いやりを持てればいいのだけれど、ちっぽけな俺には難しいな。
持とうと思わなくても、今回のように自然に心の底から溢れ出すことがある。
その感覚を大切にしたい。
心を寄り添わせるということ。
誰かの悲しみの一部を引き受けてでも、その痛みを軽減させてあげられたら。。と本心で思うこと、その感情・感覚が人間の素晴らしいところなのだと思う。
感じてもらう時も、じぶんが感じられた時も、どちらも言い得ないような満たされた気持ちになる。
自己陶酔ではなく、人間の本質なのだと思う。
思いやりでさえ”不要”と一層されてしまう時代。
いや、自分もそう感じてしまうこともあると思うんだ。
キレイに見せたいわけではない。
だけど確実に思いやりで救われる心も存在していて溶かせる氷があることも知ってる。
じんわりと伝わる人肌のような温度で丁寧に分厚い氷を時間をかけて溶かしていくイメージ。
優しく思いやりを持った人達しか周りに残していないので、日々こんな奇跡みたいな感覚に包まれてる。
大げさではなくね。
今、自分に似た部分を持った尊敬できる友人と一緒に仕事をさせてもらってる。
俺は自分のクソみたいな性格を認識しているから、できるだけ知り合いと一緒に仕事をしないようにしてる。笑
仕事だと、どうしても言われたくないことを言われることがあったり、言いたくないことを言わないといけないこともあるでしょ。
俺はお金より関係性を迷わずとる。
お金は必要だし喉から手が出るほどほしいけど、「一緒に仕事をしなければ続いていたであろう関係性」もある。
人との距離感はだいじ。
どれだけ信頼できる人や積極的に関わりたいと思える相手でも、距離感を間違えるとうんざりすることだってあるでしょ、正直な話。
これは、”あんなに愛し合った二人”がどちらがゴミを出すかでガチの喧嘩をするようになるということを経験したことがあるから。笑
思いやりがなくなるんだよ。
自分も悪かった。
そして悲しかった。
過去の恋愛から学んだ。
恋愛だけじゃなく、家族関係も同じだと思うんだ。
ある程度の距離があるから愛しく感じられる。
距離が近すぎると、当たり前じゃないことを当たり前だと感じてしまう。
俺はそれほど愚かな人間だと自覚があるから。
家族間でさえ価値観の違いがある。
恋愛においては本当に歪んでしまったな。
いつの頃からか「付き合う」ということをしなくなった。
すごくお世話になった好きだった人に、すごくすごく迷惑をかけてしまったことがあり、せめてその人が俺のことを忘れるまで誰とも付き合わないと自分の中で決めた。
あれから余裕で10年以上の年月が経ってる。
10年前の俺も誰とも付き合わないと言ってたと思うよ。笑
関係性に名前があろうがなかろうが、気持ちに変わりはないと思う。
ただ、関係性に名前がつくからこそ、築かれる絆があることも理解できる。
この話は本当に長くなるのでこのへんにしとこう。笑
恋愛感情であろうがなかろうが、「好き」だと感じられる人には幸せになってもらいたい。
相手の幸せの延長線上に自分が居ないこともあるだろう。
そうだとしても、できることなら相手の幸せを願える人でありたい。
同様に、自分の気持として想いを持ち続けることも許されるべきだと思うんだ。
昇華するまで。
いつも上手にできるかどうかなんて分かんないけどな。
人間的に好きだと思える人とだけ深く関わっていきたいよ。
どこまでも心を寄り添わせたいと感じたい。
親切な人や素敵な人はいつも幸せなのがいい。
心地よく暮らしてもらいたい。
それが俺の願いでもある。
俺みたいな小汚いやつが守れたらいいのに。笑
本当そう思うよ。笑
そう思わせてもらえるのは、結局相手が素晴らしいからにほかならない。
自分も相手も無理せずリスペクトしあえる関係性が一番いい。
友達も仕事も何もかも。
俺と一緒に仕事ができる友人は、その友人がすごいからなんだ。
普通の人だったら難しいと思う。
猫ちゃんにリスペクトを感じるように、一方的にリスペクトを感じることも多い。
人も猫も存在が物語る部分は大きいよ。
言葉ではなく、存在として学ばせてもらってる。
何年も変わらず関わってくれてる人は少ない。
でも、関わらせてもらってる人はこちらからも関わりたいと思える人ばかりだ。
変わらない関係って結構むずいよ。
この歳になると、心から愛していきたいとおもうようになる。
若い時は、愛するということは恋愛だけのように思っていたけれど、猫ちゃんを愛するように心底愛しさを感じられればそれは愛なのだと思う。
わざわざなにかの枠にあてはめなくても感覚でいいじゃん。
難しく考えなくても愛しいと思えたならそこに少なからず愛情は存在してるでしょ。
そんな自分の中での愛情の定義であれば、愛情を持って接してくれる人がいることが嬉しい。
友達の中にも愛情は必要でしょ。
下心とかそういうんじゃなよ。笑
思いやりとかそういうの全部ひっくるめて愛情でしょってこと。
持とうと思って持つものではないと思ってる。
滲み出るもの。
上辺だけじゃなく本心での愛情は心打つよ。
くすぐったくて嬉しくて、そんな感情に溢れた空間でリスペクトし合えるものだけで集まりたい。
小汚い俺(笑)だからこそ、ピュアな存在や美しい存在を守りたくなるよ。
話がとっちらかったけど、何か残しておきたくて。
まとまってなくてもいいから、今の感情を。
心からの関係性にしか興味がない。
優しい人は俺にとって神みたいなものだ。
神がいつも微笑んでいてくれたら一番いい。
そのために、小汚い俺(もういいって!)は自分らしくいながらも愛せる人達と快適に関われる場所を作り思いやりあふれる空間を作る。
でも、本質は1対1だな。
1対1で自然に長く関わってくれてる人は俺にとって宝物だな。
ありがとう。
自分が大切に思う人達が、ストレスなく楽しく日々を過ごせますように。
自分が大切に思う人達が、誰からも優しく接してもらい理不尽な扱いを受けませんように。
木漏れ日のような優しさに包まれ続けますように。
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