誰かが悪いから心のバランスを崩すんじゃないんだな。
誰も悪くなくても自分の心は不安定になるんだな。
問題が全て解決しても、戻らない事もあるんだな。
自分の事なのに知らない事ばかりだ。
心のバランスを崩すと、言葉が失われる。
無気力になり虚しくなる。
荒れ果てた大地に一人ポツンといる気持ちになる。
たとえ、雑踏の中に居ても変わらないと思う。
この感覚はなんなんだろうね。
何かしらの心の病なのかもしれないとすら思う。
でも、この感覚は知ってるんだ。
子供の頃、親に怒られて許してもらえないだろうな。。と思ったあの時の感覚。
自分が悪いんだけど、何度も怒られて、自分なりに反省していたんだけど、反省していないのではないかと言われ、どうやってこれ以上反省したらいいんだろうと思った。
一般的なレベルと比べると、たしかに反省が足りていなかったのかもしれない。
だけど思うんよ。
反省ってしようと思って出来るものなんかな。
心のそこからの反省じゃないと意味がないのは分かってる。
どれだけ真摯でいようと心がけても、根が腐っていたなら時間はかかるよ。
そんなことをずっと考えてた。
あの頃と似てる。
だけど、状況は全然違う。
本当なんなんだろう。
今思えば、子供の頃から言葉を失ってた。
”はぶてる”という言葉が嫌いだった。
「またはぶてた!」
そんなふうにバカにされるのが本当に嫌だった。
言葉がうまく出てこない事はそんなに悪いことだったんかな。
何も言えなくなることくらいあると思うんだけど。
どうなんだろう。
自分のことしかわかんないや。
文字はいい。
口からは出せなくとも、文字なら書けるよ。
なんでなんだろうね。
心の中に言葉がなくなってしまったわけじゃないんだ。
少し安心した。
言葉がうまく出ない感覚は、寒い部屋にかけられている油絵のよう。
伝わりづらいだろうけど、そんなイメージ。
こんな思いを誰に話したらいいんだろう。
とりとめのない話。
わからないからここに書く。
自分でも自分がわからない。
一人になりたい時や、そっとしておいてほしいときもあるから。
普段、あまり人に話を聞いてもらいたいと思うことはない。
答えはいつだって自分の中にしかない事を知っているから。
だけど、自分でも戸惑うくらいわけがわからない時は、さすがに少し聞いてもらいたいんだろうな。
ただ、否定はいらないしアドバイスもいらない。
そんな都合のいい使い方を人間相手にしていいはずがないね。
だけど、求めてるのはそういう存在なのだと思う。
どこまでいってもエゴイストだ。
救いようがないね。
繊細で傷つきやすい自分と、そんな弱い自分を守るための自分がいると思ってる。
無防備な小学3年生くらいの自分を、大人になった自分が守っている感覚。
わがままで欲望に素直で自分の事しか考えてなくて。
そんな自分が傷ついてしまわないように、精一杯の社会性を身に着けて振り回して戦うもうひとりの自分。
言葉が出てこない時は、この幼い自分がどこかへいなくなってしまう時だと思うんだ。
隠れて出てこない。
きっと、暗い部屋で毛布にくるまってる。
名前を読んでも出てこない。
困ったものだ。
だから仕方なく守る側の自分が話そうと試みるけれど、そういう作りではないので出来ない。
操縦士を失ったガンダム。
やはり、核にどれだけ幼かろうと本来の自分が座っていないと無理なんだ。
その核があってこそ対処が出来るわけで。
心のバランスを崩している時、何をやっても虚しい。
驚くことに、ゲームをやっても虚しくなる。
こんな時は、出来るだけたくさん眠る。
それが一番いいと思ってる。
何もかも放り出して寝たらいい。
睡眠は心のバランスを取り戻してくれる。
だけど、今日は足りなかったみたいだ。
心のバランスを崩すきっかけとなった出来事は、完全に解決した。
繰り返しになるが、そもそも誰が悪いといった話ではない。
誰も悪くなくても過去のトラウマが引っ張り出されればこの状態は続く。
いつ直るんだろう。
書いたっけ。
配信したのにほとんどしゃべれなかった。
こういう時に限って初見さん来てくれたりフォローしてくれる人いたり。
不思議だったな。
たくさんお話がしたかったな。
普通の話でいい。
スーパーに行った話でもいいし今日の出来事でもいい。
たくさん話したいのに感情も言葉もうまく出てこなくて。
悪いことしたな。
申し訳ない。
それでもありのまま生きるよ。
ありのまま生きて、ひとりぼっちになってしまうならしょうがない。
ありのまま生きて、人が離れていってしまうならしょうがない。
背伸びしないと成立しない関係性なんて苦しいじゃないか。
頑張らないと成立しない関係がある一方、ありのままの自分で成立する関係性もあるのではないかと信じてる。
都合の良い考え方かもしれないけどな。
距離感もあると思う。
近ければ近いほど、やはり配慮が必要になるような気もする。
自分らしく生きながら、相手も自分らしくいられたら一番いいのにね。
そんなのが理想。
一番いいのは、一人でいる時と変わらないくらいリラックス出来る関係性。
相手も自分の一部のような感覚。
そして、自分も相手の一部のような感覚。
良い意味で、空気のような感じなのかな。
そんな関係性が唯一成立しているのは、内面の2人の自分。
弱い「僕」は弱いまま。
強気な「俺」はとことん強く。
そのバランスで成立してる不思議な精神構造。
俺は一人暮らしだから、心のバランスを崩してしまった時、自分のペースで心を取り戻していけるけど、こういう時に、本当に誰とも暮らせないんだろうなと思う。
心配させるだろうし、自分のペースじゃないと何も出来ない。
ミスチルの曲の歌詞でさ、「ねぇくるみ 誰かの優しさも 皮肉に聞こえてしまうんだ ねえ そんな時はどうしたらいい?」みたいな歌詞があって、こういう時いつも思い出す。
そんな感覚が自分にもある。
自分自身と向き合い、独りと向き合うことになるんだろうな。
こんな自分でも、どうしようもない状態を見せても、それでも関わってくれる人が少数でもいてくれるのは嬉しいな。
情けないなぁと思うけど、等身大の自分はこんなもんだな。
短所はある。
そのうえで、長所を伸ばしていくことしか出来ないと思う。
図体だけデカくなったのに、ちっぽけだなぁ。
大人になるって、こんな感覚なんだね。
いつの頃からか、心と身体の年齢がミスマッチになっていった気がする。
置いていかれてる。
嫌いじゃないけどね。
その感覚も。
無理に成長させたくなくて、もうひとりの自分が生まれたのだと思う。
繊細なまま生きるには、社会はつらすぎる。
本当の自分のままいることが、こんなにも大変なことだとは。
大人のふりして生活してたら、大人として認識してもらえるかもしれないけれど、本当の自分を見せられなくなる。
ちっぽけで、ポンコツで、情けない自分をこうやって出すのは、”僕”の心の叫びなのだと思う。
こんな自分と関わってくれている人は、本当に優しい人ばかり。
だから、ほっこりする事が日常的に起こる。
起こしてもらってる。
周りにどんな人が居てくれるかってだいじね。
出来事が違ってくるよ。
優しさや思いやりの行動のおかげで心が救われることが多いよ。
本当に、見返りを求めているのではなく、ただ相手が喜んでくれたらいいなという純粋な動機。
純粋。
自分が得をしようとかそういう計算のもと行っていない。
関係性上、そんなことをしても意味がないから信じられる。
見返りを求めるにはあまりにも効率が悪い。笑
だからこそ信じられるんよなぁ。
利害を求めて構築する関係性みたいなものも、本当は必要なのだろうけど、どうしても魅力が感じられなくて。
そのへん、下手なんよなぁ。
本当の心からの関係性以外に興味がなくて。
大好きだと思える人と関わるのが一番いいに決まってんじゃん。
おもろいし。
自分を幸せにしてくれているのは、自分の心の在り方と周りに居てくれてる人達だ。
それは間違いない。
だから、自分と周りの人達を何かしらかの形で幸せに出来たらいいなっていつも思う。
それなのに、自分の事だけで精一杯になってしまって何も出来ていない。
挙句の果てには、心のバランスを崩して何もしゃべれなくなる。
うまくいかん。
こんな時、心の軸を見失う。
だからこそ、自分の活動であるべきなんだ。
自分の基準で、自分のペースでいいんだと思える唯一の方法は、俺の場合は誰かの活動に参加するのではなく自分で構築した場所で自分の位置を再確認すること。
俺の場所なんだから、いいんだ。
そう思うことが出来なければ、すべてに対して申し訳なさすぎて。
エゴでもなんでもいい。
心がぐらついてる時は、基盤がぐらついてるのと同じことなんよ。
悪化すれば起き上がれなくなることが想像できる。
そうなるくらいなら、嫌われても一人ぼっちになってしまってもいいから、わがままに生きるんよ。
思考日記は、こうした心のバランスを人知れずとる場所だった。
現在のこのホームページにすべてを統合したので、このホームページが思考日記の代わりになる。
だいじょうぶなんかな。
仕事関係の人も見るかもしれないし活動関係の人も見るかもしれない。
リスクでしかないね。
それでも、ありのままの自分を表現するのは人生の根底に”自分として生きたいから”というのがあるからなんだろうな。
これもエゴか。
自分が自分の光を信じなければ、誰も信じてなんてくれない。
そして、その光はきっと、人の目の奥に感じることが出来るのだと思う。
疲れたり諦めた人の目の奥には光がない。
輝いている人の目の奥には光がある。
大切なのは、何度光が消えようとも、何度だって灯せるということだ。
消えたから終わり。ではない。
大切なのは、消えないようにすることではなく、灯し方を忘れないことだよね。
消えることだってあるじゃん。
絶望したり投げ出したくなったり。
絶望しても投げ出してもいいよ。
そんなときもある。
ゼロにならなければいい。
多分、自分の場合はその光の種火を維持し続けることができそうになかったから、もうひとりの自分が心の中に生まれ守ってるのだと思う。
この心に自分が2人いるような感覚ってなんなんだろうね。
みんなそうなのかな。
きっと正体は、繊細な方は「潜在意識」、強いほうは「顕在意識」なのだと思う。
繊細な方を意識できている時点で潜在意識ではないのかな。
強い方の自分が、繊細な自分の翻訳機能を兼ねてると思ってる。
便利。
潜在意識は、いつだってシグナルを送ってるよ。
必要以上に傷ついたり、なぜか涙が出たり、どうしようもない気持ちになったり。
そんな時に、丁寧に寄り添って心を解明していくことが大切。
その寄り添う構図から、自分の中に2人いる感覚が生まれたのだと思う。
心とは向き合っていく。
このへんにしておこう。
いつまでも書いてしまう。
早く元気になるといいな。
この記事へのコメントはありません。