「このひとはこれをやるために生まれてきたんだな」と思う場面に遭遇する事がある。
そんな時、強い憧れの感情を抱く。
自分にも自分が生きている中でやるべきことみたいなものがうっすらある。
「自分らしさ」の中で全力で生きると、とんでもない力が発揮できることを知ってる。
何も継続出来ないと思っていた俺は、今年始めたミルダムを全く休んでいないらしい。
いつものメンバーが教えてくれて気づいた。
意識しても継続出来ないことだらけだというのに、無意識に当たり前のように継続出来る力。
空気を吸うことを忘れないのと同じように、何も考えなくてもやってる。
別に休むなら休むでいいよ。と、心の中で思いながらも極力休まないようにやってきたとは思う。
脳が優先順位を自動的に上げてる。
一方、10月に入って生活費を稼ごうと極力自分に合った仕事を受けようと思い試行錯誤してるけど、うまくいってはいない。
仕事でお金を得るということに全く興味がないんだと思う。
だからやろうと思うと極端に眠たくなってしまう。
脳がシャットアウトするんだろうな。
ダメ人間。
好きな事でお金を得ていかないと死ぬという人生自体が何故かハードモード。
興味がない事でお金を得ようとすると頭が働かなくなったり我慢出来ないくらい眠くなったり生きづらい。
脳が「そうじゃないだろ。」って言ってる。
でもどうすりゃいいんだよ。
わかんないから頑張ってみるしかない。
好きなことを全力でやって、信じられない力を発揮していたり輝いている人を見ると「やっぱそうだよなぁ。」と心から思う。
そして、それが人間のあるべき姿だと思う。
でも、もしかしたらみんながみんなそうではないのかもしれない。
人それぞれ興味関心も違うし価値観も違う。
仕事自体に興味がある人もいるかもしれないし、苦にならない人だっていると思う。
それはそういう人種だと思ってる。
俺みたいな人種のやつらは、好きな事以外に全く興味がない代わりに好きな事にのめり込んだ時に特別な力を発揮する。
その姿を見せたり、「それでいいんだ。」という在り方自体に価値があるのかもしれないと思ってる。
だから、やりたくない事や興味がないことをやるのはマイナスでしかないと思ってる。
ずいぶん自分に都合のいい考え方だと思う人もいるかもしれない。笑
でも、そこそこ長く生きてきてやりたくないことも興味がないこともたくさんやり、逆に好きな事もたくさんやらせてもらった。
その経験から感じたことなんよな。
世の中には部屋に引きこもってゲームばかりしている人もいる。
でも、その中にはめちゃくちゃ上手い人もおるんよな。
他の事は出来ないけど、ゲームは好きだし楽しいし自信がある、世の中ではそういう人は駄目なやつだと決めつけられがちだけど、俺はそうは思わない。
立派な特技だと思うし、誰だって駄目なとこあるじゃん。
ゲームだけじゃなくて、絵が得意な人がいればハンドメイドが得意な人もいれば様々な特技を持っている人もいる。
でもコミュニケーションを取るのがとても苦手な人もいる。
作品のクオリティとコミュニケーション能力のレベルは関係ないもんね。
そんな感じで、人の能力値はデコボコしとるんよ。
極端に下手なとこもあれば、極端に上手いとこもある。
それでいいんだと思う。
社会は平均値を大切にするけど、本当は人それぞれ個性があって上手さも下手さも個性なんよ。
その相性が良ければ、短所なんてそんなに大きな問題じゃないのかもしれない。
短所を平均値に伸ばすことに使う労力を、長所をもっと伸ばすことに使ったほうが伸び率は上がりストレスも下がる。
そのうえで、相性がいい人達が集まりお互い様でやっていけば補い合える気がするんだけどなぁ。
どうしても相手の短所が許せない事ってあると思うんよ。
それは、相性が悪いんだと思う。
人の駄目なところって、なんだか可愛らしく感じる事あるじゃん。
一方で、許せない短所も存在する。
それは、そういうことなんだと思う。
俺は好きな事を好きなようにやる以外、何も出来ない人間。
この事を隠して普通に振る舞っている時期もあったけど、とても苦しかった。
そして普通に出来ると周りも思っていたからか、今より助けてくれる人もいなかったように思う。
というか、助けの手を振り払っていた気もする。
今の自分は、苦手な事は何も出来ない、やろうとすると極端に眠くなる(猫かよ)事を認め、出来るだけ自然に生きれるように模索してる。
極力本来の自分を出したほうが、高いレベルで相性がいい人が集まってきてくれる感じがある。
気づけば、「喜んでくれたなら幸い。」と思ってくれる人たちが周りに居てくれてる。
これはきっと、どうしようもない自分を出してるからなんじゃないかと思う。
心優しい人達の存在は癒やされる。
優しさは、冬場のあたためられた柔らかくてモフモフの毛布のような心地よさがあるよ。
とても快適。
そんな気持ちをくれる人達って本当にすごいよ。
俺が自分らしく生きると、ずっと何か足りない状態になり続ける。
その足りない部分を一生懸命補ってくれようとする人が出てくる。
そういう時に、この世界も捨てたもんじゃないと感じる。
確認してんのかな。
自分の中の理想の世界を。
体現したいのかもな。
善意溢れる人達がこの世界にいてくれる事は本当に誇らしい。
どれくらい善意ある人がいるかを確認するには、ガチで自分が困るしかないんよな。笑
狙ってやってるわけではないけど、性質的に俺はこんな感じだから 自然に生きてれば人の善意を確認出来る状況になってしまう。
つまり、ピンチってことね。笑
そして感動するんよなぁ。
人って、あったけぇなぁって。
俺なんか、ボロボロになってどこまでも落ちていってしまっていてもおかしくない。
性格も悪いしやりたい事しかやれないし。
それなのに、かまってくれる人がいるのは本当ありがたいわな。
心が浄化される感じがする。
10月に入り、久々にガチめのピンチがやってくる。
以前のピンチと比べるとほんの少しだけまだ猶予があるにせよ、一般的な人からするとこれを猶予とは呼ばない。笑
俺が迎えるピンチはほとんどの場合、お金で解決出来るピンチではある。
根本的な解決をするには、好きな事で稼いでいくしかないんよ。
それ以外方法はない。
途切れず活動を継続していきたいんよ。
ローカル系も配信も。
自分らしく生きながら価値を感じてもらったり応援してもらえる活動が出来るかな。
それが自分の人生をかけたテーマであり、人生をかけた実験でもある。
自分も関わる人達も、楽しくて快適で善意溢れる空間で過ごしていけたら本当に素晴らしい。
ちっぽけな自分は、骨格の部分でしかない。
そこに肉付けをしてくれる人がどれくらい出てくるかという事なんだろうな。
俺の活動が樹木だとするなら、一本の太い木でしかないんよな。
そこにどんな葉や実が出来るかは集まってきてくれる人達によるところが大きい。
俯瞰してみると、集まってきてくれた人達も含め、一本の木に見える。
美しい木になったなら、その見栄えは俺よりも集まってきてくれた人達によるところが大きい。
そんな感じ。
でも、そもそも太くどっしりとした木になっていなければ枯れてしまうかもしれないし、嵐によって倒されてしまうかもしれない。
地味だけどじっくり本来の自分とはなにかということと向き合い、極力本来の自分で生きる事が大事なんだと思う。
じゃないと、木の見た目自体が違ってきちゃうからね。
自分らしく生きられなくなった時、ひどく虚しくなってしまうんよ。
こんなの俺じゃなくてよくね?って。
自分じゃないと駄目な事って、逆にほとんどないのかもしれないけど、少なくとも心と一致してない。
それは紛れもなく不幸だよ。
1日の終わりに、「ありがとう。今日も良い一日でした。」と心から思える生き方がいい。
ここ数年、リアルにそんな1日の終わりを迎えられる事が多い。
心の中で本当にそう言いながら眠りにつくよ。笑
誰のどこが良かったかを考えながら眠りについたり。笑
なんて幸せな人間なんだ。
お金はないけど、お金以外はいっぱいあるよ!笑
自分らしく生きていると、人に不満を覚えにくい。
いや、違和感を感じる人間とはすべて縁を切ったり距離を置いているからなのかな。
人間関係の悩みって今も皆無だな。
よくわかんない人とか、しょうもないと思う人と一切関わっていないので。
今のバランスがとてもいいんだけど、生活費だけは失われていってるのでどうにかしないと。
そこだけだ。
お金って、ほとんどの人が持っているものではあるんよな。
持ってないと生きていくのムズいもんな。
お金を稼ぐ事が得意な人もいれば下手な人もいる。
俺は下手なんよなぁ。
幸せを感じるのは得意だよ!笑
あと、人のいいところを見つけるのも得意だよ!
ここすごいなぁとか。
心から思う。
時代は常に変化し続けてるから何か大きな変化があって、いきなり俺の好きな事で稼げるようにならないとも限らない。
だから希望を失わずに生きてこ。
ありのまま生きていく事が本当に自分の中での幸せなんだと改めて思ってる。
やりたくない事をやってる時、自分らしくない。
理不尽な怒られ方をしてるときも。
嫌だなぁ。(ガキかよ)
がんばろ。
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