昨日、遠方の友人からお歳暮が届いた。
とても豪華な内容で、一つ一つセレクトしてくれてどうしてそれを選んだか、その商品のお店がどのようなお店なのかという事を一つ一つ目録として手書きしてくれてる。笑
丁寧。
“贈る”という事を楽しむという文化は、思ったより浸透していないと俺は思ってる。
この方は心から楽しんでいて、「サプライズでお歳暮送ったから配達気にしといて!」と前日に伝えてくる。
え、サプライズって伝えてもオッケーなんだっけ!?となるが、「受け取りの都合もあるだろうし。」とのこと。笑
配慮ある。
でも、一応線引はあるらしく、前日に俺以外の公開範囲の投稿を作っていた事から察すると、中身まで見せてしまうのはやりすぎらしい。
この方なりのモラルがあるのが面白い。
世間一般のサプライズの概念をそもそも守ろうとしていないのは好き。
自分ルールでいい。何事も。共感。
我慢しきれず公開範囲絞ってまで買ったものをみんなに紹介したいと思う気持ちは、子供の頃のような感覚だと思う。
とてもいい。
何より、贈る側が贈られる側と同等に楽しみワクワクしているというのが素晴らしい。
付き合いや見返りを求めてという”思う所あって”やる行為ではなく、純粋に”喜んで頂ければ幸い。”という気持ち。
それプラス、相手が喜んでくれたら自分も嬉しいという育まれた心ありきの感情。
贈る側も贈られる側もハッピーというのがすごくいい。
日頃の活動の労いの気持ちもこもってると思う。
そして友人としてなど、様々な意味合いがあると思う。
その一つ一つを感じきり、感謝するというのが受け取った側の”受け取り方”だと思ってる。
プレゼントや贈り物は真っ直ぐに受け取り、最大限喜ぶ。
それが一番いい。
こんなにいいものを受け取ってしまったらお返しが大変。。と思わないといけないような関係性を作ってはいけない。
いつかお返しをしたいという気持ちは大切。
でも、それがプレッシャーになると素直に受け取れなくなるし、見返りありきで贈ってくる人とは自然と関係性がなくなるから、ありのままいればいいと思ってる。
自分の状況をあらかじめ伝えておいたり、考え方を伝えておくというのは大切な事だと思う。
俺の普段の状況を知ってる人からすると、こいつから見返りは求められないな。。と思うじゃん。笑
その上での全力のお歳暮。”心”しかないでしょ。
どういう状況でも出来る事が一つある。
それが最大限喜び感謝すること。
お金があってもなくても(むしろ無いほうが)心から感謝する事が出来る。
ちょうど食費を削る為に人知れずお菓子をすごくすごく我慢していたタイミングだったので、中に入っていたお菓子に飛びついた。
まるで戦後の子供がチョコレートをもらった時のように。
むしゃむしゃ。
食費をよっぽど削らないといけない時以外は、普通に好きなので食べる事もある。
我慢しているという状況が、より欲する原因になってたりするよね。
お菓子は依存性もあるんだろうな。
一週間くらい全く食べないとなんともいえないモゾモゾした気持ちになり欲する。
助かった。
最近、写真を撮影した時にその写真について簡単に喋る動画を作ってYouTubeにアップしてる。
このお歳暮のやつもそのパターン作れたらいいなぁと思ってる。
こういう時に、俺が生活費のことなんか気にせずいられたらすぐなんでも作るのにと思える。
余裕がなくなってくると、ブログを書いたり動画を作ったり生放送したり活動全般が難しくなる。
先日くわいアンパンを買えたのも、支援の流れがなかったらスルーしてたと思う。
自分に余裕がなければ何も出来ないよね。
地元の物を意識して買うこと自体が支援になると感じた。
形は違えど、価格が支援の金額、商品が支援のお礼の品として考えると支援そのもの。
そういう気持ちで商品を買うというのは大切だと思った。
みんながちょっとずつ意識すれば大きく結果は変わるだろうし。
支援してもらって撮影に行く事があるけど、その時にその地で意識して買い食いしたりするのも同じことよな。
そして自分だけで楽しむのではなく、グループに投稿すれば参考になる人もいるかもしれないし、投稿を楽しんでくれる人もいるかもしれない。
そう考えると、一回の購入が複数の価値を生み出す事になるので、お値段以上の価値になる。
150円のくわいアンパンを俺が買って感想をグループに投稿して10人が買いに行ったとしたら、150円と1500円の売上になる。
俺の懐から150円は失われるけど、俺の行動により10倍の価値が生み出される。
直接俺にはくわいアンパンが手に入る以外のメリットはないけど、生産者は喜ぶ。
買わなければ俺の財布からお金がなくなる事はなく、生み出せるはずの価値は生み出さずに終わる。
0の状態。
俺が得するかどうかと価値が生まれるかどうかは別だから、俺が定価以上の得をしなくても、周りが得をする価値ベースで考えれる人でありたい。
そうある為に使えるお金がないといけないんよな。
支援してくれたお金は積極的に福山のお店や必要な物に使う。
そしてその結果をグループに投稿する。
それも活動の一つに入れていいかもしれない。
寂れた喫茶店とかの様子って結構気になったりするしな。
入ってみたい気持ちはあるんよ。
ちょっと勇気いるけどな。笑
俺が行くという事は、俺が飲み食いして終わりではなく、そこからグループに投稿してグループメンバーが行く可能性を秘めてる。
現在メンバー数が9000人を超えたグループなので、1000人に1人の割合で行ったとしても9人か。
俺が飲食する1食分の金額以上の売上は出そうな気がするよな。
こういう気持ちで食べてきました。みたいな事も投稿するので、支援の気持ちでお金を使う人が増えていく可能性もある。
どうせ食事をするなら、喜んでもらえるお金の使い方をしたいと思う人はきっと増える。
人が喜んでくれるということ、感謝されるということには力があるから。
困っていればいるほど感謝の力は強いと思う。
だから俺がピンチになるのも、あながち無駄ではないのかもしれないね。
先行き不安だと心臓に悪いけど、それぞれに役割があるのだとしたらピンチの人はピンチの人の役割があり、助ける人は助ける人の役割があるのかな。
好きでピンチになってるわけじゃないけどな。笑
でも、やはり自分で出来ることに対してはどうしても感謝の気持ちは薄れてしまうものでしょ。
自分では出来ないこと、自分では手に入れられないものをもらった時に心からの感謝の気持ちがでるでしょ。
そういう意味では、いただいたお歳暮は距離的にも金額的にも今の俺からすると価値あるものなんよな。
だから心から感謝し喜ぶ気持ちが自然に生まれる。
支援してくれている人に対しても同様に思う。
俺にとって、お金自体が手に入れにくいものなので、支援してくれる人はすごくありがたいということ。
俺がもし自分でお金をたくさん手に入れられる人だったら、逆にお金の価値は少ないと感じていると思う。
相対的なもの。
だからお金が必要だから支援をお願いしたいといい続けてるけど、お金を特別視しているわけではないんよな。
万能なチケット。最高じゃん。くらいに思ってる。
万能なチケットくれる人ありがたいじゃんね。
そういうフラットな感覚でいいと思う。
万能なチケットたくさんあるからあげるよ〜、役立ててね〜っていう爽やかな気持ちで支援してくれる人はありがたいよな。
なんでお金という言葉にするとやらしく感じるんだろうね。笑
変だよね。
お金は万能なチケットでしかないのにな。
よく子供に図書カードとかあげるじゃん。
あれと同じノリでしかないじゃん。
むしろん、なんで一回図書カードに変換するの!?って思わん?
手間もかかるし。
本にしか使ってほしくないっていうことよな。笑
意図があるならいいと思うけど、現金はいやらしいからみたいな変な理由なら不要だと個人的には思ってる。
自由に使える方がいいに決まってる。
一般的な概念に染まってないからさ、俺はそんなふうに感じるな。
ちょっとしか持っていない人にたくさん持っている人があげるというのは、”あつまれどうぶつの森”というゲームの中ではみんなやってるよ。笑
ゲームの世界では成立するのに社会では成立しないの、へんなの〜って思う。
無邪気にワクワクしながら相手に贈り物をする心って、とても尊いね。
その気持ちで嬉しくなり、こちらが嬉しかったら相手も喜んでくれ、この感謝や喜びのラリーがしばらくつづく。
やまびこのように。
反響してしばらく鳴り響き心地よく収束する。
この感覚って、相手が喜んでくれたら嬉しいという人、心から嬉しいと思える人同士じゃないと成立しないよね。
付き合いでやってるわけじゃないっていう自発的な気持ちがあるからこそ。
全力で選んだお歳暮セット!どや!
と贈り、相手がその価値を理解してくれるという事がいいのかもしれない。
話してたら、セレクトする楽しみもあるみたい。
地元の商品をセレクトして贈ってくれてるので、その地域の最強の物を知り尽くしている方だからこそ出来るものなんよな。
そういうのって商品以上に価値があるよね。
時間も手間もかけて全力で選んで贈ってくれたもの。
すごいな。
堪能させてもらおう。
甘いものやコーヒー、白米に合いそうなものもたくさん。
助かる。
心もお腹も満たされる。
ありがとう。
この記事へのコメントはありません。