赤ちゃんってさ、そこにいるだけで愛されてる。他人からも愛されてる。だから、役に立つから愛されるわけじゃないんよな〜。
赤ちゃんに常識を当てはめると、言葉も喋れない、自分で何も出来ない、自己中、すぐ泣く、1人で生きていけない。社会性なんて皆無なんよな。
それでもめちゃくちゃ愛されてる。
生きていく中で、役に立たなければ孤独になるような気がしてしまうけれど、本当はそうじゃない。本質はそこじゃない。
役に立てなくても、何も出来なくてもいいんだよ。
ただ、相手をこちらから愛するという気持ちを持てれば。
赤ちゃんはきっと相手を愛しているわけではないと思う。猫ちゃんも人間を愛しているわけではない。
意識するかしないかに関わらず愛される存在っている。
その存在がどうして愛されるのかについてよく考える。
その答えは、相手を幸せにしているからだ。誰だって愛されたいし可愛がられたい。
その一心だよ。だから気づかないうちに相手を傷つけてしまったり、愛されようとして愛されないような行動を取ることもある。
基本は、返報性の原理だと思う。
だから、相手を愛さなくても愛される人はいると思うけど、自分から基本的に相手を愛していけば愛は返ってくる。
価値観や思考の癖は人それぞれ違うので、返報性の原理が当てはまらない人も中にはいるだろうけど、割合を考えると間違いないと思ってる。
どういう人が可愛いか。素直で真っ直ぐな人。つまり、結局子供や赤ちゃんのような純粋さを持ってる人なんだと思う。
恋愛に関する”愛する”の話ではなく、人間全般の話ね。
愛は関係性から発生するという事もあると思う。血が繋がっている赤ちゃんは他人の子より可愛らしく思える事もあるだろうと思うし。
人に応援されるかどうかって、愛されるかどうかだと思ってる。
愛情を持たずに人を応援するって逆に難しいでしょ。
猫と赤ちゃんが愛される完全体だと思ってる。赤ちゃんは、立ち上がろうとするだけで心から応援される。
普通の人が普通に出来る事をやろうとするだけで喜んでもらえる。
だから、何かが出来るから愛されるのではない。一連の流れ、ストーリーも含め全てが関連してる。
赤ちゃんも、猫ちゃんもかわいい。純粋。”1人でなんでも出来る”は、愛される事から遠ざかる事のような気がする。
出来ないから応援する余白が生まれるわけで。
人から愛されがちな人を観察していると、コミュニケーション能力にすぐれ、笑顔も柔軟で”関わってよかった”と毎回思える。それが特徴。
誰もが安定して心地いい人を求めてる。”かわいい”が愛情の原石だとしたら、これは理にかなってる。
かわいいと思うポイントは人それぞれ違う。
生意気な事を可愛いと思う人もいれば、怒っている姿を可愛いと思う人もいる。
どういう形であれ、価値観が多様化しているので、おそらくどんな自分でも本当は愛されるのではないかと思う。
愛されない人がいるのであれば、対処療法のように物事に対して考えて対応を変えている人なのかもしれない。
本当の自分で全てを判断していったら、そこに当然一貫性は生まれる。頭で考えて最良の方法で決めようと考えた場合、空気を読む力が優れている人はそれでいいかもしれないが、致命的に空気が読めない人は全て裏目に出る事がある。痛々しい。
それだったら、どれだけ嫌われたっていいから本来の自分でいけばいいのにと思う。最低だろうと、なんだろうと、世界中の1人も共感してくれないなんて事は絶対にないと思う。
嫌われる覚悟をするという事は、愛される覚悟をするという事と同じだ。嫌われないようにするという事は、深く愛されないという選択を同時にしていると思う。
唯一無二だと思ってもらえるには”癖”が必要だと思う。
自分で短所だと判断している事も、誰かにとっては長所に見える事はよくある。
関われない人が出てくる事、大切に思っている人が去っていってしまうかもしれない事、これを覚悟出来れば本当の自分で生きていけるようになると思う。
表面上の自分で接するのであれば、たとえ家族や結婚相手でさえ本当のあなたには気付いてくれないだろう。
出してないんだから当然。
表面上の自分を愛されたら地獄で、本当の自分を出した時点で嫌われる。これも当然。表面上の自分で接すれば、関われる人の総数は増える。
だけど、本質的には関われない人がその中に含まれているだけの話だ。
本来関われない人なら、遅かれ早かれこじれるんだからもういいでしょ。
自分が相手を愛するかどうかと、相手が自分を愛してくれるかどうかは別の話だ。
だから、常に愛情というのは一方的なものだと思う。
お互いが一方的に相手を愛している状態を、愛し合っていると呼ぶんだと思う。
自分の理想を相手に押し付けた時点で歪んでいく。
相手には本来のその人らしさというものが存在していて、その部分を愛せるかどうかだけだと思う。
表面上の部分はどうでもいい。そこは大切じゃない。取り繕えるし、取り繕っているだけなので。
関わる人の事は、人として愛していきたい。男女問わず、かわいらしいと思えるような部分を持っている人と接していきたい。
愛情を持って接する事が出来る相手と接している時間って、自分にとっても相手にとっても幸せな時間となる。
猫ちゃんを愛でる時間がそうであるように。
自分にとっての正解は、誰かが教えてくれるものではなく、自分で探し、体験し、発見していくものだと思う。
誰かの真似をしたり誰かの言葉を鵜呑みにして見つけられるものではない。
そんな安易なものではないでしょ。そんな簡単な事なら世の中の大半の人は幸せだし自殺ももっと少ないと思う。
誰かの言葉を鵜呑みにし続ける事は、自分で自分の人生の舵取りを放棄しているように見える。
よく崇高な人の言葉を鵜呑みにしてる人いるけど、参考にするのはいいと思うけど、そのままやるのは無理だと思う。カスタムしないと。
だって、別の人間だから。
あと、教える立場の人間と教えられる立場の人間が全く同じスタンスなわけがない。
例えるなら社長と社員の仕事の内容が同じではないように、立場によって動き方は変わるはず。
自分用に変換して考える必要がある。
インフルエンサーが一声かければ人が集まったりダイナミックに物事が動くけど、インフルエンサーに影響を受けている影響力がない人がひと声かけても何も変わらない事が多い。
だから無駄という事が言いたいわけではなくて、自分の立ち位置を理解してそれに合った動き方をしていくほうがいいということ。
この違和感って周りは感じていて、「誰が言うか」が大事。偉そうな事を言っても経験が伴っていなければ響かない。
受け売りの言葉と経験からくる言葉は全然違うので。
どうしてこの話をするかというと、この手のタイプは愛されない傾向にあると思うから。
影響力を持ちたいと思い影響力を持っている人の真似をするけど、薄っぺらいので見透かされる。
愛されたいと思い、愛される人の真似をするけどこれも見透かされる。
そんな事をするくらいなら本来の自分でいけばいいのにと思う。
どうせそんなに好かれてないなら特に。失うものなんてないだろ。
本来の自分というのは誰もが最強なんじゃないかと思う。結局赤ちゃんがめちゃくちゃ愛されるように、原点が一番いいんじゃないかな。
経験から歪んでしまって、それが原因で愛されなくなっていく気がしてる。
歪みを直そうとしなくても、取り繕わずにダサくても本当の自分で防御せずに生きてみたらいい。
それがつまり歪んでいない状態だから。
時々、脈絡もなく今回のようにいきなり愛情について語ったりする。これも直感に従ってる。
自分に必要なのかもしれないし、これを読む可能性のある誰かに必要なのかもしれない。
それは俺には分からない。
無数の要因が絡み合って伝わるべき人に伝わるのではないかと思う。
ピンチの時期、感覚が研ぎ澄まされる感じがあって、奇跡が起きやすくなるだけではなく、今回ブログを書いているように”衝動”に突き動かされる事が増える。
出来るだけ身を任せるようにしてる。仕事しなきゃ。役目は終わったと思う。
この感覚に意味なんてあるのかな。直感って、”こうしないといけない気がする”みたいな感覚や、抑えがたい”こうしたい!!”という感情。
その行動の意味が分からない時もあり、それが直感の特徴。面白いから身を任せる。
こんな朝から愛情について語るとは思わなかった。人間って不思議ね。
この記事へのコメントはありません。