自分にとって、お金のためにやる仕事というのは基本的に苦だった。そのことから、作業ってなんだか面白くないようなイメージをずっと持っていた。
しかし、日々の活動の中でメンバーにガッツリ作業をしてもらう事があり、その中に喜びを感じてくれていることに気がついた。
対話によって知り得たその事実。貴重だと思った。
基本的に自分の感覚のみで動いていってるので、ふいに自分にない感覚を知ると勉強になる。
作業が楽しいという事実があることについて知ったのは、本来作業をする必要がないメンバーも率先的に作業に加わっているのを見た時だった。
しかも、それが一人だけではなかったという事が衝撃的だった。
もともと、メンバーに作業をしてもらっているのは協調性があるかどうかのテストという意味合いが強く、一体感を持って活動していけるように”あえて”作業を作っていた。
それが全体にとって役に立つというのは前提の上で。
自由に過ごしていい区分けのメンバーと、まだ信頼関係が完璧ではないメンバーで関わり方を分けているんだけど、自由に過ごしていいはずのメンバーがこの作業の方に入ってきて楽しそうに作業をしているのを見て、必ずしも自由だからといってそれが最大限の幸せとは限らないんだなと思った。
もし、自由が最上級なのであればわざわざ決められた作業をこなしに自主的に行くわけがない。俺の中での最上級は何もしなくていいという自由だと思っていたので面白いと思った。
メンバーに話を聞くと、みんなの役に立てているという実感、そしてささやかながら報酬を受け取れるということに喜びを感じているようだった。
全体の作業結果を集中して一度受け取り、それを作業してくれたメンバーにバランスを考えながら再配分するという試みをやってみてる。
正直、自由に過ごせる区分けのメンバーにとって、作業をしなくていい場所に行けばその報酬内容なんて微々たるものだった。
だからそれが目的の一つになるとは思っていなかった。
報酬の内容よりも、みんなの役に立てているという実感や、何かしら人の手から受け取れるということに喜びを感じるのだと思った。
本当に面白い発見。
何気なく始めた事が想定とは違う方向で進化していくのは面白い。
作業を人にやってもらうのって、なんだか心苦しいような気がしていたけれど、それは俺の感覚であって世の中には人の役に立つ事なら作業でも頑張ってくれる人がいるのだとわかった。
嫌々じゃないというのがすごくいい。俺は基本的に人の言葉はあんまり信じていなくて、相手がどういう行動を取るかというところに重きを置き判断してる。
だから、社交辞令で言ってたなら長期間自主的に作業に参加するというのは考えられないし、そもそもこれが一人だけじゃないということに興味を持った。
設計の仕方次第で作業すらコンテンツになるのだと思った。作業が喜びを感じながらやってもらえるコンテンツとなるのなら、なんでも成立するんじゃないかと思った。
きっと、俺がずっと追いかけてる世界観ではこれが大きなヒントになってると思う。
自分が追い求める幸せと誰かの幸せがリンクした時に初めて叶うものだと思うから。
誰かに自分の苦手な事を押し付けて自分だけが得をするみたいなことではなく、相手に喜びを感じてもらいながら自分も相手も幸せになれるようなものを模索していきたい。
そのためには、自分がやりたい事の芯は曲げずに相手が何を求めていて利害が一致するのかを判断していくことなんだろうな。
全力でやっても努力を努力と思わないほど好きなことでお互いが繋がれていけたなら誰も不幸にならずに関わっていけるのではないかと思ったよ。
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