正論を言うのが一番簡単で、一番正しいと思わせられるよね。でも、そういう世界はうんざりなんだよなぁ。正論でマウント取ろうとするやつって、常識や一般論を振りかざして自分の考えがないやつが多いよ。
そんなやつより、俺はたとえメチャクチャでも独自の理論を持ってるやつの方が好きだ。正論を突き詰めていくと、人間味から遠ざかっていく。楽しさも無くなり、知ってればいいだけで考える必要さえなくなる。
価値観が多様化している事は誰でも知っているのに、なんで一つの正論に答えを収束させようとするんだろう。本当俺には理解出来ない。
いろんな考えがあっていい、いろんな答えがあっていいよ。俺は俺の答えを経験から導き出して、無数にある答えの中の一つとして提示していきたいと思った。正論からは程遠いものも多いと思う。でも、それでいいと思ってる。
例えば、今運営している6500人以上メンバーが居るグループでは完全に俺の独断で運営するようにしてみてる。忖度無く判断していくことで、判断の一つ一つが価値観の統一を促す事になってる。
多数決や正論で物事を決めていたなら、きっと今みたいな形にはなっていない。間違ってしまう事もたくさんあると思う。間違ってもミスしても行動したやつの方が俺は凄いと思っているので、それでいい。
ずっとそうやってきたから今があるんだと思う。誰にも理解されないと思っても、味方がいると思えなくても行動しないといけない時もあるもんな。結果が出れば最終的には認めてもらえる。結果が出なければ間違っていたと言われるだろうね。
行動の正しさなんて、結局そんなあやふやなものなんだよ。でも揺らがないのは、確かに行動したという事実。または行動出来なかったという事実。
SNS疲れっていう言葉あるじゃん。あれって、まさに正論に疲れた人がなるやつだよ。じゃぁどうしたらいいかっていう答えはすでにあって、その答えが上述したグループなんよな。あれは実験的に自分の軸を貫くと決めて数年運営してる。考えが合わない人にとっては理不尽だと思う事もあったと思う。それでも貫いた。結果がこれだ。
俺の人生においては、人に合わせるよりも自分を貫いた方が結果が出るみたい。だから、正論はいらない。知識としては取り入れてる。こういうことやったらこういう事言う人が出てくるだろうなぁみたいな事はある程度考える。
そこで想像されてる時点でつまらない考えだよ。意見を聞くまでもない。だって、想像出来てんだから。それも踏まえた上でやってんでしょ。議論にもならないってこと。昔から人の意見があまり好きじゃないと思ってた。でも、違ったよ。意見されるのが嫌いなんじゃなくて、自分の想像の枠を超えるような意見をする人がいなかったからだよ。
自分の頭の中で考えていくつか可能性考えるじゃん。その最初の方に出てくるような意見をぶつけられるのが苛ついてたんだと思う。建設的な議論をするのはいい。あと、正論はこっちだからこういうふうにしないとおかしい!みたいな事を言われるのが嫌いだからなんだと思う。
正論はわかってる、お前の考えはどうなの?ってなる。正論は、知識でしかない。世間的にこういうのが正しいと”いわれている”というもの。必ずしも自分の考えと一致するわけではないだろ。
正論はわかった、あなたの考えを聞かせてくれ。正論通りなら聞かなくてもわかってる。それだけの話しになってしまう。わざわざ言うまでもない。
そういうやりとりをいちいちやる事が真摯的な態度だと思ってた。でも、いつまでやるんだよ。その次元の話は正直省略出来るはずなので、そのレベルの話をしなくていい人達と関わった方が建設的でしょ。
そんな事が可能なのか?可能だ。実際、6500人いるグループでもこのレベルの話をする事は本当に少ない。価値観の多様化を認めるという事は、コミュニティ内で様々な意見を全て聞くという意味ではなく、コミュニティレベルで一つの価値観を提案し、それに沿って活動出来る人だけをいれる。つまり、個人レベルではなくコミュニティレベルでの価値観の多様化を認めるという事だと思う。
もちろん、パブリックな場所では個人レベルでの価値観の多様化が認められるけど、そもそも価値観の違いなのか正論信者なのかの判断がついていないのが致命的。正論で生きていないやつがいるから進化があるんだよ。イレギュラーな人間が居なくちゃ全滅してしまう場面も出てくる。
自らをイレギュラーな存在だと認めている人達は、無理に正論に自分を当てはめる必要は無い。知識として知り、正論を重んじる人達と関わる時だけ必要に応じて使えばいい。もしくは、近づかなければいい。
俺の活動は、入り口はパブリックな場所に面しているけれど、本当のコアな部分はクローズドな場所にするというのがいいと思ってる。子供の頃、友達だけで遊んだあの感じ。大人とか仲良くないやつがいると楽しい話出来ないじゃん。最終的にはそこに行き着くんだろうなと。
その深度を段階的に作っていき、価値観の一致具合とイコールにしていけば感覚が合う人と関わる時間が自然に多くなる。
これからの時代は、時代を受け入れた人は年齢差関係なく友達になっていき繋がり、昔ながらの事にこだわり過ぎた人は年をとって孤立していくと思う。年齢関係なくスキルが高い人は評価されるべきだし、フラットに話せる時代が来た。
だからこそ、相手を敬う気持ちは大事だと思うけど、それさえあれば大丈夫だと思う。年下だろうが年上だろうが、関係性にリスペクトを感じられなくなったら終わりだよ。大前提として相手をリスペクトしているから成立してんだから。関わる人は選ぶ。
似た価値観の人とは楽しくやっていけそうだ。結局やってることは10年前と同じで、あの頃やってた事って今の方が刺さる。あの頃、ある程度の事は経験しているから今同じ事をやるとしても有利だと思ってる。時代は変わっているので、全く同じじゃダメだと思うけどな。そのへんは動き出したらいくらでも微調整出来る。
前のめりで動いていかんとな。バランスは取れないから、支えてもらえるようになりたい。バランスが取れないから動けない、動けないから支えてもらえない…みたいな状態ってあるじゃん。あれは結局まずこっちがリスクを取らないといけないと思ってる。じゃないと判断出来ないだろうしね。
朝も昼も夜も関係なく、リアルもネットも関係なく、ずっと参加できる楽しいことを福山でやり続けているグループというイメージが今頭の中にあって、実現したらすごく楽しいと思う。ただ、グループに入れる人は選ぶので、入り口は広めに設定しているけど合わない人は入れない。合わないのに入ろうとする人が意味わからないしな。
俺の事は嫌い、でもコミュニティには入りたい。そんなわけわからん人って実際におるんよ。笑 絶対入れないけどな。笑 コミュニティってそもそもどういうものか理解出来てないんだと思う。誰もが好き勝手やって成立するようなものではない。楽しさを最大化させる為に少なくとも邪魔をしないというのは最低条件でしょ。俺は嫌いな人とは関わらないし距離を取る。だから、当然俺のコミュニティには入れない。それがお互いのためでしょ。
合わない人とイライラしながら時間を過ごすより、自然に考えや感じ方が近い人達と無理なく快適にやっていく。いろんな考えの人がいるんだから、無理に距離を近づけなくていいと思う。それぞれが、それぞれでいいんだから。
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