生きている中で、「○○をやったけどダメだった。」という事は無数にある。その都度、「これが原因でダメだったんだ。。」と、自分なりに一番正解っぽい答えを決める。
なんとなく検証しながら生きていて、特に不自然な点がなければ、やはりそれが原因だったっぽいな。。という事で落ち着く。
その繰り返しをしながら生きてると思うんだけど、正解っぽいけど、違う事ってある。
矛盾点はないし1つの原因の可能性として否めないけど、本当の大きい原因はそこじゃない。ということある。
特に子供の頃の経験では、大人が絶対的な生きものに見えていたけど、いざ自分が大人になってみると子供とそんなに大差ない。機嫌が悪い事だってあるし、理不尽なときもあるかもしれない。
子供は怒られた時に自分なりに原因を探る。本当は、大人の気まぐれや機嫌が悪かったり八つ当たりされただけなのかもしれないのに。
それは極端な話だが、こういう事がたくさんあって、その都度自分なりの答えを出しているわけだけど、ここ数年俺はその再検証をしてる。
・人当たりが良くないと嫌われるんじゃないか。
・厳しいことを言ったら嫌われるんじゃないか。
・人見知りだったら嫌われるんじゃないか。
半分正解で半分間違ってるよね。確かにそれだけの事で嫌う人もいるだろうけど、全てがそうじゃないのだと、実際にやってみて分かった。多少嫌われても貫きたい事ってある。本来、貫ける性格なのにそう出来なくなった原因を探っていた。
大きなショックを受ける出来事が原因の場合に心に深く傷を負って、同じ体験をしないようにその選択肢が消されている事に気付いた。まるでパソコンの不可視ファイルのように。そこにあるはずなのに表示されてないんだ。
その不可視ファイルを探る作業が、行動と思考の再検証。脳内で思考の再検証はいつもやっているが、行動の再検証は痛みを伴う。
まるで大勢の観客がいる舞台でスベるとわかっている一発ギャグを自分の意思でやると決めるような覚悟が必要だ。
でも、それを避けては再検証が出来ない。
自分の今の常識で確実に「嫌われる」と思っている事をやるというのは本当に疲れることだ。孤独に向かおうとしているようなものだから。
いい意味で「もうどうなってもいい」と思えないと難しい。ここ数年は、それが出来ているので発見が多い。
人は停滞してるときほどつまらなく感じるものはない。停滞していても停滞してるなりに動ける時はまだいい。無気力になるパターンがヤバイ。
今、自分の生活は上手くいってるとはいえないけど、爽快感はある。人に嫌われることもあるし縁が切れることもある。
心から思っている事を相手に伝えて、相手の機嫌を損ね縁が切れてしまった場合、本当の言葉なら後悔しないのだと知った。
それを乗り越えてこその関係性だからだ。乗り越えられないのであればそれはもう仕方がない。
関係は自分ひとりで作り上げるものではないから。
「孤独になる覚悟」をしたが、今も孤独にはなっていない。多分、俺が思っていた嫌われる要素にはズレが有る。たくさんの本を読んできた。そこに書かれている納得できるものだけは信じてきた。鵜呑みにしてきたわけではない。が、結局自分自身が経験した事しかあてにならない。
経験した事でも間違った解釈で捉えていることがるので再検証していかなければならない。人の心なんて、一生わからないのだから。心理学を自分なりに学んでみたり、人の事を分かるようになりたいと願い行動してきたけれど、結局人の心は一生わからないのだと知る。
だけど、知ろうとする気持ちが美しいのだと思った。知れるわけではないけど、理解しようとすること。
俺の場合はどういう意図で相手がその言葉を自分にぶつけてきているのかを極力状況から読む事は努めている。その上で不快であれば出来るだけ早期に不快だと伝えるようにしてる。そこで関係性が終わるなら仕方がない。
時々、俺が相手の気持ちを理解せずに言葉を伝えていると思われる事がある。全部ではないだろうけど、大概は自分なりに理解し意図を想像し伝えているし、それが外れる事は経験上少ないと思ってる。
突っかかってくる人というのはわかりやすい人が多い。だから織り込み済みで話をするのだが、理解しようとするくだりをすっ飛ばすから理解している事を理解されない事がある。
言葉の意図は大切だ。時々、丁寧な言葉で失礼な事を言ってくる人もいる。そういう人とは関わらない事にしている。
悪意はないと言ってくるけど、やはり言葉というのは文章だとしても雰囲気があるし、脈絡を読むと不自然な点が複数出てくるものだ。
それらを総合して考えると悪意があるという事がわかる事は多い。
今書いたようなことも、再検証の中で再確認出来たこと。人生は面白い。飽きることがない。
10月になった。もう1段階好きな事に特化出来るように行動する。
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