過去、自分の中で究極的に「他人のために」と「自分のために」をやってきた。そこで思う事。拡大する事を考えなければ、快適さはかなりの可能性で保たれる。その代わり、快適に近づけば近づくほど、1人に近づいていくという事だと思った。一番思い通りに出来る究極の形、極論は人と関わらないということ。これが最も心を乱されずに快適にいる方法なのではないかという一応の答えが出てしまった。
究極に他人の為にやっていくと、「他人の為に」の定義にもよるとは思うけど、自分の軸を意地することが困難になる。人を優先し、自分の事は後回しにしてでも人が喜んでくれればそれでいいと考えながらやってみた結果、なんだか自分という存在が雑に扱われるようになった気がした。
そこで思った。自分が自分を大切にしていなければ、周りの人も自分の事を大切に思わなくなるのではないかと。いってみれば空気のような存在。協力してくれて当たり前、存在していて当たり前、逆に協力しないと不満を持つようになる。人間とはなんと勝手な生き物なのだろう。もちろん、全ての人がそうだという事はないのだろうけど、なんだかそんな空気感を当時感じたのを覚えている。過保護な家の子供は、お母さんが自分の世話をしてくれないと文句を言う。なんだかそれに似ていると思った。
極端に他人の為にやってみたり、極端に自分のためにやってみた結果、拡大を望みながら快適さも望みたい場合、周りと繁栄する事を考えるのがいいのではないかと思った。この考えも、人の為にと思い行動していた時に持っていたものではあるのだけど、その時には自分の事を後回しにしてでも。。と思っていた。今は具体的にそこが違う。考えが違う人とは距離を置くし、最悪の場合は縁を切る。それが今は出来る。当時は出来なかった。
自分の軸の中で、自分の為になる事の中で、周りと協調してやっていけること。これを最近はずっと考えていた。自分のプラットフォームを作るためにインターネット関係のスキルはある程度磨いてきてるので、一通りの事はわかるつもりだ。
人がどんな時にアクションを起こしやすいか考えた時に、「自分のメリットになること」だと思った。人の為にやっているように思える事でも、本質は自分の為だったりする。ボランティアを頑張る人の中には一定数、自尊心を満たしてもらうことが報酬になっている人達がいる。報酬を受け取っていないのではなく、「認めてもらえた」「役に立てた」という経験自体がその人にとっての報酬になっているわけだ。
人の価値観は本当に様々で、必ずしもお金が一番価値が高いというわけではない。本人でさえ、人の為にやっていると思いこんでいる事でも、脳の奥底では多幸感を得る為にやって自分を満たす為だったりするものだ。
広い意味で、その人にとってのメリットになる事を副産物として生み出しながらやっていくというのがいいと思った。拡大していく事と快適な事を両立する事は難しい。拡大し続ける事も、快適であり続ける事も難しい。だから、自分に拡大し続けなくてもいいこと、快適であり続けなくてもいいことを「許す」ことが、結局は拡大と快適に繋がるのだと思う。
拡大させられない自分は駄目なやつなんだ。。とか、快適さを維持出来ない自分は未熟なんだ。。とか思う必要はない。そう思ってしまったら、そう思いたくないから思わないような行動をとってしまう。つまり、深層心理が行動を妨げてしまう。
どうなっても自分という存在の価値は一切変わらないということを本当の意味で知る事が大事。上手くいってる時も、どん底な時も、自分の価値は一定であり、周りの評価よりも自分の普遍的な存在価値を自分自身で肯定することだ。
今、意識が緩やかに拡大の方向に向かっている。それを試すためにも久々にInstagramをやってみたが、やはり数字的にも結果が出るということはそういう時期なのだと思う。直感の赴くままに行動していく。理解なんてしなくても結果が示すから。
上手くいく事にも意味があり、上手くいかない事にも意味があるのなら、無駄な事なんて1つもない。だから、行動する事を恐れる必要はない。今体が動くことをやればいいんだ。直感の行動の意味は後から知る事になるのだから。
無性に拡大について意識が向かっている今は、そういう時期なんだと思う。そこに対して細かく考える事に意味なんてない。それより意識が向いた事を実現する為にどうするかを考える方が建設的だ。心がじんわりあたたかくなるような感覚をこれからも大切にしていく。
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