ある人から言わせればキレイ事かもしれない。
けど、今日ふと存在しているだけで価値があるという事について頭に入ってきた。
野良猫は存在しているだけで猫好きなおばちゃんがご飯をくれる。
その事を考えた時に、価値を意識して提供しているから報酬をもらえるわけではないという考えに至った。
猫をかわいがる人の理由はそれぞれだと思う。
どんな理由であれ、猫が幸せにいて欲しい、お腹いっぱいで心地いい場所で眠ってくれたら自分も幸せ。
快適でいてくれてありがとう。
と思うはずだ。
そんな気持ちが、確かに自分にもある。
猫大好きだからね。
これは何も動物だけではなくて人間にも当てはまるのだと思った。
猫が幸せになる為に猫に快適になってもらったら、そうした側の自分が嬉しい。
そして、だからといって猫に何かを求める事もない。
つまり、見返りを求めていない。
可愛い猫が猫らしくいてくれればそれだけでいい。
そう思う。
きっと、猫にご飯をあげる側も幸せを猫にもらってるんだ。
だから、「あげる」側も「もらう」側も、本来どちらもプラスを受け取っている。
幸せを双方が受け取っているんだ。
あげる側が偉くてもらう側が劣っているというわけではない。
世の中の仕組みとして表面上そう見える場面が多いので勝手に洗脳されていたように思う。
そもそもサービスを提供する側がいなければ提供される側は困るわけであり、逆にどんな良質なサービスを用意しても、使ってくれる人がいなければ価値なんて無い。
その視点で考えると双方対等な立場にある。
極端に考えていってもこの考えは成立すると思考の中で検証してみた結果思った。
そして、猫の例で考えると、猫が出来る最大のお返しは、猫らしくいるということ。
猫らしく可愛らしい姿をいつも見せてくれたらそれで満足だ。
俺は猫を飼っているわけではないけどね。
世界中の猫が幸せになればいい。
とても素晴らしい存在だから。
どこで何をしていても存在しているだけで素晴らしいのだという事を本当の意味で理解出来た時に自分の生き方が出来るのだと思った。
わからなくなったら猫の事を考えようと思う。
猫だったらどうだろう。
その視点で、いい意味で常識を気にせず考えられるように思う。
ありのままの自分、何も出来ない自分にさえ価値が存在していて、そのうえでやりたい事をやっていく。
意識の問題だけだけど、自分にとって、とても大切な考え方だと思った。
そもそも、ありのままの自分に価値がなければ応援してやろうと思ってくれた人たちはいなかっただろう。
だって、いい時もあれば悪い時だってある。
メリットを提供出来ない時期でさえ応援してくれたり助けてくれた人たちがいる。
本当に俺は運がいいし恵まれている。
なんでこんな俺に良くしてくれるんだろう。。と思ってた。
性格も良くない、何も貢献出来ない俺に。。と。
自分が例え何も価値を提供出来ていないとしても、猫のように存在しているだけで何か感じてくれる人がいるのであれば自然と感謝が生まれるし、仮に周りにそういう人がいない状況でも、なんだか自分の存在というものを信じられるような気がしてきた。
まだまだわからない事だらけではあるけど、自分の中でこの考えについて検証していこう。
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