有名人なわけではありませんが、名前が邪魔だと思う時があります。
名前というか、なんというんだろう、「自分」がやっていると認識される事が思い切りを鈍らせるというか。
悪いことしようとしてるんじゃないですよ。笑
自分じゃない名前で作品を作りたい時がある。
作品はさ、正直作者の名前なんてどうでもいいんだよ。
その作品が素晴らしければ、作者なんて付属品だ。
誰が作ったかわからない作品だって、価値を認められる事は絶対にあるはずだ。
だとしたら、本当に作りたいものを作るために名前が邪魔なんだったら外してしまえばいい。
大切なのは、自分の名前を誇示する事ではなくて自分が創りたい物を創ることのはずだ。
このブログも、自分の名前なんて本来いらないのかもしれない。
思考置き場であり、誰かが読む可能性が残されていればそれでいいはずだ。
俺の名前を入れる必要は本来無い。
伝える事よりも心の中を言語化する事に重点を置いているからだ。
自分のキャラに合わない事はやりにくいんだよね。
客観的に自分を見る習慣があるから人見知りなんだ。
見れてるかどうかは別としてね。
人にどう思われるかを気にしないようになりたいなぁ。
気にしないように気をつけてはいるけど、気にしないようになるのは難しいので、それだったら名前を隠して表現したらいいというところにいきついた。
具体的に何かやりたいわけではないんだけどね、でも、名前よりも作品が大切という考え方でいくと出来る事が増えたり、より深く表現出来るような気がしたんだ。
自分という枠を超えてもっと常識を逸脱したものを作り出したいなぁという欲がある。
思想は自由であり、その表現方法も自由なんだ。
自分の名前が常識の中に置かれている限り、本当に表現した事は出来ないのではないか。
その想いはある種の恐怖でもある。
日常を続けていく「名前」には限界がある。
個人を認識する名前がある限り常識を引きずる。
心をもっと解き放ちたいんだ。
見たこともない、聞いた事もない、今まで感じた事もないような感覚を自分の中に生み出したい。
そんな事を考えていたらさ、普段の人間関係の悩みとか人と合うとか合わないとか考える事自体がなんだかめんどくさくなっちゃってね。
いけないことなんだろうけどさ。
結局は自分がどうかってことだし、自分と向き合ったほうが早かったり心の置き所を考える方が早かったり。
合わない人とは関わらなければいいだけだろ。
俺は俺でしかないんだから。
そういう事で悩みたくないよね。
もっと突き詰めていきたい。
この記事へのコメントはありません。