親父が亡くなったので書いておく。

brown wooden table with white printer paper on top

時間が経てば経つほど詳細を思い出せなくなると思うので、流れや概要だけでも残しておこうと思って。

2025年2月13日23時34分だったかな、親父は亡くなった。

2月9日午前2時59分に家族から連絡あり。

俺は電話恐怖症なので普段は誰からの電話も取らないんだけど、さすがにこの時間の家族の電話はヤバいと思って出た。

親父がICUに運ばれたとのこと。

 

その日、親父は体調を崩していて、普段だったら絶対に病院に行こうと言っても行かないのにこの日は行ったらしい。

病院についてもすぐに診てもらえずしばらく待ったと聞いた。

 

かなりヤバそうだったのですぐに病院に向かうのだが、早朝までに終わらせないといけない仕事があったので最速で終わらせてから行った。

ICUの手前に数人入れる待合室みたいなところがあり、そこに家族はいた。

普段から自分のことばかりでなかなか実家に帰れてなかったので、家族と会うこと自体がとても久しぶりだった。

待合室は換気扇の音がうるさく、普通に話している声は聞き取りづらかった。

 

2月9日は日曜日だったので専門医がいなく、当直?の先生が対応してくれた。

専門は内科と言っていたと思う。

 

週末なのですぐに検査結果を出すことができないこと、今できることは全てやったことなど現状とどういう処置をしたか伝えてくれた。

どれくらい酸素を吸えているかを示す数字があり、普通の人が限界まで息を止めた状態で90を切ることはないと言ってたかな、通常時は100とか。

で、親父は90切ってる状態だったらしく、想像を絶する苦しさだと思った。

 

ICUの中に面会に行けるのは親族全員を含めて2名だけ。

俺も入りたかったけど譲った。

それがいいと思ったから。

理由は自分の中にある。

入っていいならもちろん入ってたけどな。

 

ICUに隣接した待合室とは別の一般の人の待合室みたいなところに他の親族がいた。

これ以上やれることは現段階ではないので、話もそこそこに俺は仕事に備えて帰宅した。

 

2月9日9時2分 家族から電話あり。

亡くなったか?と、ドキッとした。

家族の声色でまだ亡くなってないか心の中で探った。

電話の内容は、病状がよくないとのこと。

今回は状況が状況なので、2名ずつ交代で面会できるらしいので行った。

 

この日、10時間分の仕事を日付変わるまでにやりきらないといけなかったので、クライアントに連絡した。

しかし、クライアントは企業なので日曜日は基本的にお休み。

連絡に目を通してもらえないまま仕事を終えられなかったら最悪契約を打ち切られたり信用を失うよなぁ。なんて思いながらも、目の前のことに集中することにした。

 

病院につくとICUの待合室で医師が説明をしていた。

とりあえず俺は手を洗って面会に行けることになった。

医師から事前に伝えられていたが、親父は自力での呼吸が困難な状態になっており、首の所に穴を空け補助的に機械で酸素を送っている状態だった。

無意識でもその機械を取ってしまうと命に関わるので、手を拘束されていた。

 

親父はとても苦しそうだったが目は開けていた。

「親父、来たで。」

感情ばかりが溢れてゴチャゴチャしているのに言葉としては表現出来ずにいた。

医師に促されるまま右手を握る。

親父はその手を少し上げた。

今から考えると、その手を少し上げたということ自体が親父の意思表示だったのだと思う。

意識はまだあることを伝えてくれたんだと思う。

いつも、実家に帰ると「お〜、帰ったか。たまにゃぁ帰ってこいよ。お母さんが泣いとるぞ(心配しとるぞ)」と冗談っぽく定型文のように行ってきたのを思い出した。

いつも自分が心配しているとは言わなかったな。

それは気恥ずかしかったからお母さんが言ってるということにして伝えたかったんじゃないかと推測している。

重くなりすぎないようにとの配慮なのではないかと。

そんないつも親父の声が脳内で再生された。

 

手を握った時、親父の目が少し潤んでいたような気がした。

俺は親父の右側に立っていたが、親父は左上を見回していた。

涙をこらえようとしているのか、何かそこに見えているのか。

 

ICUではもちろん撮影はできないのが決まりだが、母が医師に聞くと「機械が映らなければ大丈夫ですよ。」と言ってくれた。

その後、家族と交代し面会は続いた。

この段階だったかな、医師から話があり、親父の命は1週間もたない可能性があると伝えられたと思う。

しかし、検査の結果も出ていないのではっきりとしたことは言えないと。

親父は生前、延命治療はしないでくれと母に伝えていたらしい。

 

医師からも話があったけど、命を延ばすために薬を使い続ければ、副作用で内臓などがボロボロになってしまうらしい。

だから一時的に使うことができても、長期的に使うと違うところが駄目になってくると。

そういう意味でも、親父の判断は正しいと思ったし、生き方的にも親父らしいと思う。

 

俺は仕事をしに帰宅。

クライアントから連絡があり、完了しなくても大丈夫とのこと。

丁寧に連絡をくれた。

でも、できるなら穴を空けないようにしないと。。と思い残り10時間分くらいある仕事をなんとか日付が変わるまでに終わらせることができた。

 

2月10日月曜日

親父は一般病棟に移った。

主治医がつき、病状はよくはないものの緊急で何かあるわけでもなさそうだったので仕事をした。

フリーランスは仕事に穴を空けると信用問題になりかねないのもあるし、保障もないので生活が立ち行かなくなってしまう。

できることなら仕事を全部休みたいと思いながらも、この段階では回復する可能性もゼロではなかったので緊急時以外もつきっきりで病院に居続けるというのは現実的ではなかった。

その代わり、緊急時にすぐに行けるように前倒しで仕事をやっていた。

病室では一人夜通し付き添えるらしく、母が付き添った。

 

2月11日火曜日 建国記念の日

家族から電話があって親父の病状がよくなさそうだったので面会に行った。

少し病状は良くなってきているかもしれないと話していた。

家族としばらく話し、その足で仕事用の撮影に向かった。

 

2月12日水曜日

自分の中で密かに親父が退院するまで毎日面会には行こうと思ってた。

しかし、人見知りなのであまり誰にも会わないように面会にいけないものか。。と考えた。

面会時間は9時から21時までだったので、20時頃に連絡なしで行けばいいと思った。

病室には5人までしか入れないので、多いようであれば自分が帰ればいいと思いそのつもりで行った。

ソワソワして20時前に病院についてしまった。。

 

病室には家族がおり、親父は見た感じあまり変わってなさそうだった。

しばらく家族と話し、21時の面会の終わりの時間くらいのタイミングで帰宅したと思う。

 

2月13日木曜日

この日も20時頃に連絡無しで面会に行こうと密かに思いながら仕事をしていた。

17時54分、家族から連絡あり。

病状がかなりよくないとのこと。

「わかった。すぐ行くわ〜。」と伝え、予定を前倒しして病院に向かった。

 

病室につくと久々に会う親戚もいた。

明るい性格の親戚のおかげで場は和んだ。

懐かしい話もした。

 

21時が近づいた頃、母と話してる時に面会時間の延長や付き添い人数を増やせないか看護師さんに聞いてみようという話になった。

男性の医師に聞いたところ、状況を説明しても「決まりなので。」という対応で無理そうだった。

親父の病室で何度か見かけた看護師さんに話をすると、「状況が状況なので。。」と特別に許可してくれた。

話す相手によって結果が違ったので、諦めなくて本当によかった。

 

親父のベッドの近くにモニターがあり、心拍数?に異常があると警告音が鳴る。

時々、話の内容が分かっているかのようなタイミングでこの警告音が鳴る。

意識はなさそうなのに聞こえているのかもしれないと思うことが何度かあった。

特に、親族が話しかけたり帰ろうとすると呼び止めるかのように鳴った。

 

その後、大きな変化がなさそうだったので家族が帰宅を始めた。

見送った後、通常は黄色いランプの表示とともに警告音が鳴っていたのが、赤い表示と警告音が鳴った。

心拍数が一瞬200を超え、その後、徐々に落ちていく。

看護師さんは慣れた様子。

この赤い表示は何度かありおさまった。

帰宅しようとした家族を呼び戻し、駐車場で待機している親戚にも伝えたんかな。

 

そして、何度目かの赤い表示のあとに心拍数がゼロになる。

こんなに急にやってくるものなんだな。

親父のベットを囲み、その場にいる家族が手を握り声を掛ける。

こんなときにも、うまく言葉が出てこなかった。

「親父!親父!」と繰り返すばかり。

 

病室には「まだ行っちゃいけんよ!戻ってきて!ありがとうね。頑張ってくれた。」など、感謝の気持ちも含まれるようになっていった。

一度ゼロになった心拍数が26程度に2回ほど戻ったが、それは機械の影響のようだった。

自力で呼吸ができなくなった時に、強制的に機械が酸素を送り呼吸を続けるようになっていたから。

 

しばらくして医師が病室に入ってきて正式に亡くなったと診断した。

2025年2月13日23時34分だったと思う。

この時間は医師が正式に診断した時間なので、厳密にはもっと早い時間に心臓は止まっている。

 

そこから親父を運ぶ準備が始まる。

家族は自動販売機やテーブルや椅子などがある一般の待合場所みたいな場所でしばらく待つ。

売店?で浴衣だったかな、着替えるものを急遽買ってたと思う。

 

準備が整い病室に戻る。

事前に家族が葬儀屋さんに相談をしていたので、相談していた葬儀屋さんが親父を運んでくれることになった。

 

2月14日金曜日

1時30分頃だったか、とにかく1時を回った時間に葬儀屋さんがきた。

この段階では、実家に2月14日と2月15日は親父をおいておくという話だったように思う。

しかし、2月17日 月曜日が友引だったのでどうするんだろうと思ってた。

 

その足で実家に行き親父を寝かせる場所を葬儀屋さんに家族が伝える。

親父を運ぶのを男たちは手伝った。

2月15日に葬儀場に親父を連れて行ってもらえることになった。

  

線香などをセットしてもらい、親父の口に綿棒みたいなものに水をつけて触れさせ想いを伝えるという流れがあった。

やはり想いを口にすると涙はこらえられるようなものではない。

基本的に泣くのは全部終わって帰宅して自分の部屋で一人で。。と思っていたのだが。

 

今後の葬儀の話が始まる。

喪主は誰がやるか、葬儀はどのプランでやるかなど。

喪主は俺がやろうと思っていたけど、やりたいという家族がいたので譲った。

結果的に、この形が一番良かったと心から思ってる。

俺は俺で自発的に自分がやる意思は見せれたし、喪主をやりたいという家族の想いも伝わった。

俺はしょうがなく譲ったのではなく、この人こそふさわしいと心から思ったから譲った。

それは残しておきたい。

親父も絶対に喜んでると思う。

この形が一番よかった。

 

数時間だけ寝て喪服などを取りに帰ることになる。

親父がまだ生きてる時に、念の為と思い一式用意しておいてよかった。

家族に送り迎えしてもらい、荷物を持って自宅に戻る。

送り迎えしてもらっている車中で、最近の親父の様子や実家でどうだったか、家族の近況などを聞いた。

親父は体が痛いといつも言っていたらしい。

酒を飲むと家族と口論になることもあったらしいが、それも今から思えば体調が悪かったから痛みを酒で誤魔化していたのかも。。と。

 

酒もタバコもやる人だったので、ある程度親父自身も覚悟はしてたのかもな。

それでも、最近はお酒は控えめにしていたそう。

孫と1日でも共に過ごせるようにと願っていたのかな。

 

16時半から湯灌の儀・納棺の儀。

親父を棺に入れに来てくれた。

その後、実家には親戚も集まっていてリビングにはつめないと座れないくらいになっていた。

人見知りなので身の置きどころがなくて困ったし情けなかった。

 

夜には親父の繋がりのおじさんが大量の寿司を持ってきてくれた。

子供の頃以来会っていなかったので、こちらもどう接していいかわからなかった。

 

リビングでは他の家族が寝るっぽかったので、台所にマットレスと布団を敷いて寝た。

どこでも寝れるのでまったく問題なかった。

 

2月15日 土曜日 通夜の日

午前10時に葬儀屋さんが来る予定だったが9時半くらいにきたかな。

この時は葬儀に使う写真とか料理や花などの締切がこの時間だったと思う。

 

自分の香典や花代などのお金をおろしに連れて行ってもらう。

食料品や翌日に備えてワックス(整髪料)などを購入。

スーパーでお米が5キロ5千円くらいして驚く。

 

15時頃、棺を式場に移動の予定だったので、それまでに喪服を着るなど準備。

親父がいつも着ている服を準備するように言われており、それを着させてくれてた。

棺に入ると触れることはできなくなるが、顔のところは扉みたいになっていて顔は見える状態だった。

男たちで棺を運ぶのを手伝った。

 

その足で通夜の会場へ。

控室に荷物をおろし、葬儀屋さんに控室の説明をしてもらう。

 

17時頃、通夜の受付周辺に立ち来た方を迎える。

よく知ってる親戚のおばちゃんとおじちゃんが到着。

18時にお通夜開式。

30分ほどで閉式。

 

お焼香のやり方、事前に調べていたけどあやふやで焦った。

喪主が最初にお焼香をし、その後3人ずつみたいな感じで助かった。

喪主をやる人はお焼香のやり方を覚えておかないといけないので注意。

ちなみに、お焼香を顔の辺りにやるあの動作は宗派によって1回のところと2回のところがあるみたい。

喪主の挨拶は通夜と葬儀では別のものだった。

葬儀の内容はお坊さんが来てお教を上げてくれる一般的なものだったと思う。

葬儀屋さんが司会をしてくれた。

 

通夜式が閉式後、親戚などでお酒を飲んだりご飯を食べたりした。

自分はお腹が弱いので、大切な予定がある日には念の為お酒を控えるが、親父はお酒が大好きだったので飲むことにした。

そういえば前日、ご飯を食べる時にお酒を飲むか聞かれ上記の理由で断ったが、親父を囲んで献杯?するようだったので急遽1杯飲むことにした。

生前、あまり一緒にお酒を飲めなかったように思うので、せめてこの時くらいは。。と思い考え直した。

肉体があるうちにそうしておきたいと思ったから。

 

ちらほら、翌日に備えて帰宅する親戚がいるなか、深夜まで飲んでいる人たちもいた。

親父が明るい雰囲気が好きだったということもあり、終始、和やかな雰囲気が続いた。

そのまま一晩終わると思っていた頃、人数が少なくなった室内では号泣する人もいた。

 

通夜で会場に泊まる時、基本的にお布団はほとんど用意されない。2セットくらいあったのかな、それと毛布など。

あとはレンタルでという感じ。

寝るなら雑魚寝するのが普通っぽかった。

 

葬儀場によると思うが、アメニティやシャワー室、給湯室、冷蔵庫、トイレなどはあった。

 

親父は生まれ育った土地の海に散骨を望んでおり、親戚のおじちゃんにそのことを話すと、先に亡くなった親族も同様に散骨を望んでいたらしく実際にやった際に許可取りなどが大変だったと教えてくれた。

親父の散骨の際は協力してくれるとも言ってくれた。

おじさんにしか分からない情報もあるため心強い。

 

2月16日日曜日

少しだけ眠り起きた。

朝ご飯を食べて準備をする。

朝ご飯なども基本的には自分たちで用意する必要があったので注意。

9時頃に葬儀屋さんが説明に来てくれた。

通夜の会場とご飯を食べた会場は別の場所だが、親父の体はご飯を食べるところに連れてきてくれていた。

通夜と告別式は同じ場所でやるので、告別式の場所へ葬儀屋さんが親父を運んでくれた。

 

告別式が終わるとその足で火葬場へ行く流れだったので、荷物をまとめて自動車に入れた。

告別式の会場に行く前に最終チェックをしていたら家族の忘れ物があった。

俺も忘れっぽいからので気持ちはわかる。

だからこそ、こういう時に必要以上に確認するくせがついてる。

結果、よかった。

 

告別式の会場に行くとすでに参列者の方がいた。

この時、記憶が確かなら11時になってるかなってないかだったかな。

葬儀告別式は確か12時からだったか。

 

葬儀告別式では初七日のやつも合わせて行われた。

つまり、2回お焼香をやった。

 

告別式が終わり記念撮影をする流れになった。

その後、親父が好きだったものなどを棺に入れていく。

花、写真、生前身につけていたものなども順番に入れていく。

 

みんなで棺の蓋を締め、霊柩車に乗せる。

自動車に乗って火葬場へ向かう。

 

火葬場へつくと、火葬の流れなどの説明をしてもらった。

火葬は1時間ほど行われる。

火葬が始まったのが14時か15時のどっちかだったと思う。

待っている間は、火葬場にい続けなければならないというわけではないらしい。

が、もし出かけていてお骨上げに間に合わなくても待ってはくれないとのこと。

火葬するスケジュールがあるので、それはそうだと思う。

 

俺は動かず待合室みたいなところで親戚のおばちゃんと話してた。

火葬後、30分ほどかな、骨を冷ます時間がある。

その後、お骨上げ。

 

火葬場の方に移動するように促され行った先には親父の骨があった。

一部、人のどの部位か分かるくらいキレイに大きく形が残っていた。

大きな菜箸のようなお骨上げ専用の箸(竹製だったかな?四角く長い感じの印象)で、足元から骨を骨壺に入れていく。

事前に説明があったが、骨は高温になっており、箸から落ちそうになった時に咄嗟に手で落ちないようにしようとする人が多いみたい。

だから、火傷をする人も少なくないらしい。

 

骨壺に対して残っている骨の量が多かったので、残った骨はどうするんだろうと思っていたら、残った骨は他の方の骨と共に供養されるそう。

 

その後、現地で解散した。

俺は、今回の葬儀に関することは最後まで見届けてから帰ろうと思っていたので、実家で四十九日まで置かれる祭壇?を設置するのも見に行った。

ほとんどの親戚や世帯を持っている家族はそのまま帰宅した。

 

実家に到着後、葬儀屋さんが祭壇を設置してくれた。

祭壇は組んであるだけなので体重をかけたり寄りかかったりすると崩れてしまうので注意が必要とのこと。

その後、実家の近所の方などが訪ねてきてくれた。

 

ご飯を食べて帰宅した。

手作りハンバーグも焼きそばも何もかも全部とても美味しかったなぁ。

 

細かいところがちらほら抜けてるかもしれないけど、全体の流れを残しておきたくて。

本当はじっくり細かいことを書いたり話す動画を作りたいところなんだけど、いつできるかわからないと思ったのでまずはこうして残しておく。

 

会社員は家族がなくなったら1週間くらい休めるのが普通らしい。

フリーランスはそういうのまったくないから、普段から余裕を作っておかないと本当に危ない。

金銭面もそうだし外注として仕事を受けてる場合は取引相手に迷惑をかけないように。

 

今回は、(これでも)最大限に親父関係のことを最優先にできた。

状況が許さない場合だったらどうしてたんだろうと思うと本当に恐い。

今、取引させてもらってるクライアントが理解ある方々で本当によかった。

 

親父は亡くなったけど、これからも親父のことは考えていくし心の中での対話は続けていく。

それは未練ではなく整理。

あの時こうだった、こういう気持ちがあった、こういう理由があった、ごめん、ありがとう、など。

 

他にも書きたいことは山程あるけど、まず俺は新規で仕事増やさなきゃ。

たまたま仕事の環境がこのタイミングで変わってしまって、良い流れではない時期に重なったんよ。

だから気を抜くと本当に潰れる。

 

でも、これは自分の実力がないから余裕がないわけで、すべて自分が悪いな。

自分が目指す生き方に全振りしてしまっているので、こういう時に対応できないのは危ない。

 

まぁ、自分のことはいいとして、今回思ったのはお葬式はみんなで力を合わせないと対応するのが難しいということ。

力を合わせる必要がないと生まれない会話や感情も実際あるよな。

良いお葬式にしようと、みんなの心は一つになる。

 

一人ひとりがすごく頑張ってた。

よく動いてた。

カバーし合ってるのも見た。

 

そして、親父のために足を運んでくてた方々にも感謝よな。

あと、亡くなった時にこれだけたくさんの人が足を運んでくれたり泣いてくれる関係性を作れてた親父は本当に人間として愛されていたんだなと思い誇らしかった。

もちろん、無茶苦茶な面もあった親父なので、すべてを美化するつもりはないけど、最後の最後でこうして家族が集まり慕ってくれている人たちも集まってくれたのは、ひとえに親父をリスペクトしてる人たちが多いからなんよな。

 

自分にはないものだから、とてもすごいと思ったよ。

 

葬儀などに関してはほとんどの人が不慣れよな。

参列する側と親族側ってぜんぜん違う。

だから仕事がもう少し安定したら気付きや注意することなどをシェアしていけたらいいな。

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