こうして福山を離れ旅に出たのはいつぶりだろうか。
中国地方から出ることなんてほとんどないので。
機会をもらえたことに感謝だ。
今回の旅は、いうなれば自分のルーツを感じる旅。
詳細を書くつもりはなかったんだけど、書かないと今感じていることを書きづらいので書くか。
おばあちゃんが高齢になり体調が良くなさそうだったから会いにきたんよ。
喜んでくれたらいいなと思って会いにきたんだけど、面会に行っても寝てたのもあり俺を認識できたかどうかわからなかった。
何度か目を開けたので話しかけたんだけど。
いつの間にか親戚のおじちゃんやおばちゃんまで歳をとってた。
それだけ時間が経ってるんだ。
今回は考えさせられたな。
話を聞いてると、60歳を超えると元気だった人も結構ガタがくるみたい。
70歳を超えるとみんな何かしら抱えてる。
80歳を迎える頃には何かしらの手術をしている人が多いように思った。
普段、街を歩いているおじいちゃんやおばあちゃんを見ても、その人たちの暮らしぶりはわからないじゃん。
だけど、高確率でみんな大変な経験をしていて、どこかしら引きずってんだと思うと、もっと優しくならないとなと思ったよ。
おばあちゃんは叔父や叔母に介護してもらっていたんだけど、体調が悪くなり介護度もあがっていき最終的に施設に行くことになったみたい。
介護をしていた時の話も聞いたけど、やはり壮絶だな。
笑って話してたけど、一緒に住みながら介護をするというのはかなりの覚悟がいると思った。
覚悟だけでは乗り越えられないこともあるだろうなと。
人は歳をとると、また赤ちゃんのようになるのだと感じた。
手間がかかるようになるんだ。
誰しもそう。
自分だけでは自分のことができなくなっていく。
おばあちゃんは俺と性格がすごく似ているので、自分の子とはいえ迷惑をかけたり全面的にお世話になるというのは気を使っただろうし、できることなら避けたかったんじゃないかな。
それでも、そうは言ってられない時がくるんだ。
きっと、他人のほうがまだ気が楽なこともあったと思う。
それは介護する側もされる側も。
そして、身内だからできたということもあるだろう。
俺が子供の時のおばあちゃんの年齢が、ちょうどいまの叔母の年齢くらいかなと想像した。
叔母はまだ見た目は元気で、体の節々を痛そうにしている時もあるけど自分で歩けるし家事もやってる。
そうだな。ちょうどあの頃のおばあちゃんくらいの感じだ。
自分が歳を重ねてないと、60歳も80歳も100歳もそんなに違わない「おじいちゃん・おばあちゃん」という”存在”としてみてしまうんよな。
でも、当たり前だけど明確に60歳と70歳でも大きな違いはあるし、歳を重ねるほど1年の重みが増すんだ。
時間の経過が速く感じるようになってしまうのに1年の重みが増していくというのは、なんとも皮肉なことだ。
残される側だとそう感じるけど、自分自身のことに置き換えたらどうなんだろ。
やりたいことを一通りして満足していたなら、死もまた悪くはないと思えるようになるのかな。
すごく前にテレビで100歳以上の人にインタビューしてるのがあって、大半の人が死を恐くないと言ってたんよ。
それが印象的でさ。
動物である限り、死は遠ざけたいものだと感じてしまうけれど、個人の人生において死はそれぞれに違った印象のものなのかもしれない。
毎日やらなければならない仕事以外は、極力やらずに過ごした。
クライアントには迷惑をかけているかもしれないけれど。
今、ちょうど2件テストライティング中、1件新規で仕事もらえそうだからズームミーティングの予定が入ってるとこ。
実際にやらせてもらってみてお互いに良さそうなら提示された条件でやるみたいな感じ。
生活費のためだからね。
今はわがまま言ってられない。
去年から今年のはじめにかけてやらせてもらっていた大きな仕事のおかげで今がある。
生活費のために大量に仕事を抱え込んでいるタイミングだったら、今回、身軽に動けなかったかもしれないから。
本当に感謝だよ。
あの仕事が終わった後、ちょうどYouTube Shortsの収益化が始まったので専念してた。
ショート動画は本当収益率は低い。
他のメリットを見つけられたので実験的にはよかった。
1ヶ月まるまるそうやってやりたい実験をやってても生活費は普通にかかるわけで。
やりたいことを最優先してたら、すぐに生活費が足りなくなるよね。笑
で、焦って生活費を稼ぐための仕事を増やすという繰り返し。
だからいつまで経っても余裕が生まれないという。
お金を手元に残すことよりも、そういう興味が優ってしまうんだろうな。
だからやりたいことに専念できることは至福なんよ。
それも、あのお仕事があったからだ。
結局、報酬を当初使おうと思っていたことにはまだ使えていないんだけど使っていないからこそ、全てのタイミングがあった感じ。
自分の力だけでは来れてなかったな。
いつもそうだ。
周りの助けや優しさで成り立ってる。
そのことを俺は素直に嬉しく思ってる。
自分でなんでもやれれば本当はカッコいいんだろうけど、甘えさせてくれたり善意を持って接してくれる人に感謝の気持ちを持って受け取るようになった。
いや、昔からそうだったんかもしれんけど。
本当めぐまれてる。
生活費のためにやる仕事は、自分がつまらないと思っても受ける。
極力ちゃんとやる。
楽しめる仕事は単価が低かろうと、時には金にならなかろうとやることもあると思う。
仕事って、本来、お金を支払わなければできない経験ができることもあるからな。
そんなことばかりやってるとまた生活が不安定になるんだけど。
興味があって報酬もいいのが一番いい!!!
話がずれた。(ずれすぎ。笑)
今回の旅は急遽決まったから、こんなにすぐ来れたのは本当、お陰様なんよ。
しょうがなくではなく、行きたから行く。
これがだいじ。
本心で、心の底から行きたいから行く。
つきあいでもなんでもなく。
おばあちゃんに俺が会いたいから行く。
それで少しでも喜んでくれたらいいなと思った。
体調が悪いみたいだったから、たとえ認識できなかったとしても俺が会えたからいいんだ。
おばあちゃんのためにきた!というのは驕りすぎか。
だから、自分のために来たというのがしっくりくる。
電車と船を乗り継いできたよ。
船を降りてからは叔父と叔母に車で迎えにきてもらった。
おばあちゃんに会うという目的のためだけにこれだけの人たちが動いていて。
それだけの価値がある人物ということよな。
人を価値ではかろうとするのは変なことかもしれないけど。
俺はいつからか好きな人、大切に思う人でもなかなか会えないようになっていた。
心理的なことが影響してるんだと思う。
だから家族、親戚、好意がある人にもなんだか会えなくて。
何かしらの心の病気なのだろうかと思いながら、日々を淡々とすごしてた。
会いたくないとかそういうことじゃないんだけどね。
多分、自分に余裕がなさすぎるからなんだと思う。
フリーランスという不安定な働き方を自分で選び、生活費を稼がないと。。と強迫観念をいつも持ってる。
もともとダメ人間なので、多分気を緩めると簡単に崩壊してしまうことがわかるから。
本来、働きたい人間ではないのでね。笑
だからこそ、普通の人より普通を意識しなければできない。
そのことで精一杯になってしまってるんだろうな。
いつまでも同じではない、時間は経っていて、同じように見える1年でも世界は同時に1年進んでいるんだ。
何かで人は最長でも120歳くらいまでしか生きられないみたいなのを見たことがある気がする。
これが130歳だろうと140歳だろうと、上限が決まってることに変わりはない。
その中の大切な1年なのに、そのことを実感できなくなってる。
愚かだ。
頭ではわかっていても実感がないので、つい生活に追われ一番大切なことをどんどん後回しにしていってしまうんよな。
それがダメなことだと分かってるのにやめられない。
これは俺がよくいう、顕在意識では分かってるけど潜在意識では分かっていないということ。
痩せたいけどダイエットできないのと同じ。
こういうのって何か起きないとほとんど変えられないんだけど、その”何か”がでかすぎるからできることなら本気で何も起こる前に実感して行動できるようになりたいよな。
現実的にはほとんどの人が無理だと思う。
俺が今回来れたのも、さっきも書いたけどおかげさまなんよ。
俺の力だけでは来れてない。
想いはあっても行動できていなかったと思う。
望む方向性があり、手を引っ張ってくれたり後ろから押してもらえることで初めて実現できることもあるんだ。
人と人は、思っているよりも相互に助け合わなければ目的に辿り着けないものなのかもな。
基盤にちゃんと想いがあり、その上で相互作用で実現する。
そして関わる人がみんなハッピー。
それが一番いい。
ビジネスもそんな感じよな。
ビジネスも家族や親戚の話も似てるんだな。
今回は、叔父と叔母と話をしていて”血縁”の強さを感じた。
すごいよな。
血のつながりがあるというのは本当に意味があることで特別なことなんだな。
社会にでればでるほど、希薄な関係性を知れば知るほど、血のつながりってすごいと感じる。
わがまま放題の子ども時代に、それでも見離されず可愛がってもらっていたというのは今から考えると愛でしかないよな。
自分は特別なんだと思うのにじゅうぶんだったんだ。
それが後々の自尊心に影響をあたえてると思う。
そう考えると、フリーランスになろうと思えたのも、自分ならできると信じられたからなのでおかげさまだよな。
もちろん、フリーランスになる時にもたくさんの助けがあり自分一人でなれたとは全く思っていないんだけど。
あと数時間したら帰路に着く。
帰りの道も楽しみたいと思ってる。
せっかくなら。
帰宅したら仕事が待ってるな。
今、生活費を稼ぐために新規クライアントを増やさないといけない時期なので、当分はテストライティングをやると思う。
とはいえ、今月中に基盤をつくれなければ来月終わるので気合いをいれなきゃ。(どんだけギリギリなんだ。笑)
俺が新規クライアントを求めるということはそういうことよ。笑
で、お互いが継続を望むなら基本的にはクライアントをガンガン変えたいとは思わないので、長くやらせてもらいたい。
無理なら他探す。
その繰り返し。
毎日記事を更新させてもらってるお仕事は、もうどれくらいだろう2年か3年くらいやらせてもらってるな。
問題なく関わらせてもらえるところとは基本的に長くやらせてもらいたいんよ。
合わないところとは、報酬が少し高くてもこちらからお断りすることもあるけどな。
お互い不快に思いながらやる意味ないじゃん。
会社はよくても担当者が合わないみたいなこともある。
フリーランスって足元見られがちだし、俺は生活費を稼ぐためなら状況によっては柔軟に対応するからあれだけど、フリーランスを大切にしてくれるとことはやっぱ長くやらせてもらいたいと思うよ。
自分のとこだけ儲かればいい!みたいなのって結構単価見ればわかるじゃん。笑
これ時給換算したことあんのかよ!っていう提示額のとことかもあるよ。笑
どう考えてもありえね〜だろと。
そういうとこはフリーランスを利用して自分が得すればいいと思ってるだけなので、こちらもピンチの時に一時的に利用させてもらうことはあっても体制が整えば早々にこちらから切るよね。
利用しようとしているなら、割り切って利用されながらこちらも利用する。
そういう使い方になる。
一方、手厚く考えてくれてると感じたところには、頼まれてもいないのにサービスすることもある!笑
これ、やっときました!みたいな。笑
「ついでです!」って言って。笑
もちろん、それで追加で報酬くれとか言わんよ。笑
たくさんもらってるなぁって思ったら、そういう些細なことは報酬に含まれてるとこちらも感じられるので含めてササっとやっちゃうことがある。
「いや、いつもお世話になってるんで!」と気持ちの良いやりとりが生まれる。
優しさを持っている人には優しくしたいと思えるもんな。
そしていつも思うけど、最初に優しさを見せてくれる人ってすごいよ。
俺からすればその人は1人だけど、その人目線でいえば見返りなんてないことが当たり前でそれでも優しくし続けてるということだから!
中には理不尽な人もいるだろうに。
だからすごいと思うんよ。
そこまで想像した上で。
そんな素晴らしい人は絶対に得した方がいいと思うのでサービスをする。笑
そういう人が幸せになったら俺も嬉しいもんな。
お金ってさ、わかりやすいよね。
大切に思っていることにみんな支払うから。
ぜんぜん殺伐となんかしないよ。
お金は優しい。
そしてそんな優しいお金に助けられ今があるんだ。
なんて幸せなことだろう。
また話がずれた。
旅の最後の夜。
様々なことを考え過ごしてる。
贅沢。
自分のルーツのこと、今までの人生、親戚との関係性、現在の仕事、大切に思える人たちのこと、これからのこと。
例外なくみんな老いるんだ。
今やれることを無理してでもやったほうがいいね。
お金はたくさんあればいいけれど、ないならないで最小限の中、好きなことをやったほうが後悔がないな。
お金があっても健康は取り戻せないんだもんな。
まだ体が動くうちに体を動かせないとできないことをやったほうがええな。
お金はパソコンとWi-Fiがあればベッドの上からでも稼げるわけだから。
今の俺の働き方って、本当ベッドの上からでも可能だ。
流れが速い今の時代において、将来もできるかどうかはわからないけど、形を変えながら自分にフィットしたことをやっていこうと思ってる。
人工知能によって生産性があがり、めんどくさい部分を代わりにやってくれるようになると思うので、やりたくないことはやらないでいい方向に行く気がするんだけど。
そして、よりベッドの上から仕事しやすくなるとは思ってるんだけど。
現段階ではね。
どうなるかな。
お金を基準に考えるんじゃなくて、今しかできないことを基準に考えたほうがええよな。
同じ気持ちの人たちと一緒に生きてこ。
そうはいってもまた帰宅したら生活に追われるんだろうな。
今こうして書いてて正解だと思う。
思いがけず、半分くらい仕事の話になったけどまぁええか。
またおばあちゃんに会いにきたいな。
叔母や叔父にも。
感謝だ。
優しさに包まれた時間と空間を本当にありがとう。
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