数年前から、「こういう人」という自分像を作り出さないように心がけてる。
誰かから見た自分が、凝り固まってしまうというのは恐ろしい事だと学んだからだ。
俺は良いところもあれば悪いところもたくさんある。
冷たいところもあれば優しいところもある。
その全てが自分なんよ。
自分をよく見せようと思っていたわけではないけど、あえて人を否定する必要がないと思っていた時期がある。
基本的には今も変わってないけど、当時の自分と違うのは、あえて自分が言わなくてもいい事は言わなかったことだ。
たとえそれが、自分に関することでも。
今も言いたくない事は言わないよ。
でも、もうちょっと自分を守ってもよかったのだと思う。
自分にも言い分があったり、これを言っちゃうと相手にマイナスになる可能性があると思った事は言わなかった。
周りの人は、言わなくても分かってくれるだろうと思っていたし、言わない事が美学的な事も思っていたように思う。
俺が思う性善説みたいなものは、きっと独りよがりなものだ。
世の中は想像する以上に直接的じゃなければ伝わらない。
出来る限りの事を肯定し続け、その結果、望まない結果が待っているとは思いもしなかった。
きっと、人は地に足をついていない状態では生きていけないのだと思う。
たとえ、自分の中にあるものだったり自分自身の理想だったとしても、あまりにもそれが崇高すぎたら理解されずマイナスに働く事もあるのだと思う。
当時の自分が間違っていたとは思わないけど、俺は最低な部分も最高な部分も、どちらも背負って生きていくべきなのだと思った。
それから数年間、俺は自分を出来るだけよく見せないように心がけた。
ワガママで自己中心的で強欲で不器用。
生産性もなく友達も少ない。
そんな、等身大の自分を表現する事に務めた。
きっと、そんな事をすれば一人ぼっちになってしまうと思ったけれど、一度やってみたかった。
本当の自分を出していなくなる人や、そんな関係性は、存在しないに等しい。
そう思ったから。
それでも恐かったけど。
あれから5年以上経った。
今も変わらず友達は少ない。
だけど、気にかけてくれる人が増えたり弱さを見せたからこそ距離感が縮まった人もいる。
好きな事しかやれない人間なので、生きているだけで精一杯。
自分らしくいられた一日の終わりには、心から「自分らしくいさせてくれてありがとう。」と考えながら毛布にくるまり眠りに落ちる。
怒られてしまったり、嫌な事があった時には、どうしようもない気持ちになりながら過ごす。
何歳になってもちっぽけな自分に、しょうもないなと思いながらも自分らしいなとも思う。
子供の頃から求め続けてきた「自由」は、お金より優先する事で保たれていると思う。
出来る限り、カッコ悪いところも出していこう。
バカにされてしまうかもしれないけれど。
等身大の自分で生きようと思い続けられるのは、周りにいてくれる優しい人達のおかげだ。
こんな、なにもない自分の事を気にかけてくれたり、一方的に与え続けてくれた。
時間をかけて、損得ではなく継続され構築された関係性ほど信頼出来るものはないよ。
ギブアンドテイクが前提の関係性ではないのに、一方的に与え続けるというのは本心でしかない。
ネットに染まり人を信用出来にくくなった自分が、ネット上で関係性を作っていくのは簡単なことではない。
そんな中、変わらず関わってくれた人たちの存在は大きい。
とくにこの5年くらいは徹底して自分のダメダメなとこも出してきたから。
懐が深い人達はすごい。
タイトルについては、改めて、いいところも悪いところも全てひっくるめて自分だ、その上で生きていける環境を作っていこうと思ったから。
俺は、自由に思ったようにやれる事じゃないと力を発揮出来ない。
基本的に失敗しながら試行錯誤していくし、細かいところなんてマジでどうでもいいので、細かい所をいちいち指摘されるような事は合わない。
誰かの言うことを聞かないといけないことも合わない。
やらなければならないときや、やると決めたときは苦手でもちゃんとやるように務めるけど、最終的には自分の活動の中でしか輝けないと分かってる。
誰かの判断基準なんて分かんないしね。
合わないとき、突き通せる位置にいないとだめだ。
そんなことをふと思ったので残しておく。
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