どこにでもあるような日常の風景には、どこにでもあるような大切な思い出が隠れている。
過ごしている時には気付きにくいが、時が経ち、その”どこにでもあるような”時間が特別なものだったのだと気付かされる。
その頃には、街は大きく変化し、当時の面影すら無い場所も増えている。
きっと人は、みんなそうして時間の大切さを学んでいくのだろう。
なんて、真面目に書いてみたけど、これはよく思うこと。
どこにでもあるような何気ない風景には、誰かの大切な大切な思い出が隠れてるんよ。
本人ですら忘れている事もあると思う。
だけど、しっかり思い出してみた時に涙が出てくるような思い出。
愛しくて切なくて。
大切で手放したくない思い出。
そういうものに寄り添いたい。
ローカル系のグループでは、自分の思い出が特にないような場所でも、あえて撮影しておくことが多い。
そして出来るだけ投稿する。
それは、俺にとって思い入れがなくても、誰かが生まれ育った場所であったり、昔遊んだ場所であったり、習い事に行く時の道だったり、想像出来なくてもそこに人がいたのなら思い出もきっとあるからだ。
俺が大切に思う気持ちも、誰かが大切に思う気持ちもきっと同じだ。
自分が感じられなくても、誰かが感じてくれたなら意味があるものになる。
俺の中で1個の幸せが生まれるのも、誰かの心に1個の幸せが生まれるのも同じことだ。
自分が感じられるから得、そうじゃないから損とかそういうことじゃないじゃん。
この世に幸せを生み出せるのであれば、自分のものであろうと誰かのものであろうと同じだ。
そして、少し想像力を働かせながら、俺は好きな事をやり続ければ良いんだ。
誰かのためになっていてもいなくても。
自分にとって幸せならそれでいいし、自分にとってメリットがなくてもやりたいと思えたなら誰かの幸せになっていたら良い。
願わくば、自分にとっても誰かにとっても幸せだとなおいい。
基準は自分。
エゴでもなんでもいい。
自分がやりたいかどうかが一番。
そうじゃないと継続出来ないので。
刹那的にやりたいと思ったことなら、別に継続出来なくたって良い。
でも、できれば継続する事でしか見ることが出来ない世界を見たいじゃん。
好きな事ならしつこいくらいやる。
周りが呆れるくらい。
無限にエネルギーが生まれてくるから。
逆に、やりたくないことはエネルギーを作り出そうとしても難しい。
作り出そうとするだけで1日終わって寝る時間になることだってある。
非生産的。
そんなの嫌だ。
だから好きな事だけをやらせてほしいわけだ。
好きな事であればなんでもいいわけでもない。
自分のやりたいように出来なければ、つまらなくなってしまってくたびれる。
やがて、面白くなくなり嫌いになる。
そういうもんだろ?
好きな事を好きなようにやるからいいんだ。
好きだったことも、誰かの基準に従うだけになってしまえば、それは興味の対象から外れる。
それは自分にとって不幸なことであり勿体ないこと。
なんにでも興味を持てるわけではないので。
好きな事を失ってしまうのは、お金を失うことより不幸だ。
生きる活力を失う事になるのでね。
きっと、一気に老ける。
何歳になってもやりたいことをやっている人は活力に溢れているし、人として可愛らしい。
自分もそうでありたい。
書こうか迷ったけど書いておくか。
少し前、ローカルグループのメンバーからメッセージが届いた。
海外に住んでいたけど、数年前に福山に住んでいる親御さんが亡くなったらしい。
でも、新型コロナウイルスのせいで帰省できない。
そんなとき、俺のグループでの投稿を見てくれていたらしい。
感謝のメッセージだった。
ただただ感謝を伝える事を目的としたメッセージ。
感謝の気持ちを伝えようと思って、メッセージを書き始めた、その時の心境に思いを馳せた。
グループでは、いつも俺は厳しい面を出来るだけ出すようにしてる。
もしかしたら、勇気のいることだったのかもしれない。
俺からすれば、俺の活動を意味あるものにしてくれてありがとうという気持ちだ。
俺の活動って、根本的に好きな事をやる、その上で誰かのためになったなら嬉しいという順番。
意識はするけど、必ずではないというスタンス。
だから、この活動に意味を見出すのって参加する側なんよな。
もちろん、気持ちとしては上述した通り、自分にとって関係ない場所も意識して撮影するけどさ。
そういえば、別件で、単身赴任か何かで関東に住んでいる人が、俺のグループの投稿を見て時に涙を流しながら見ていると言ってくれたことがあった。
何気ない風景にも、それぞれの思い出があるんだよ。
遠く離れた地で、かつて毎日のように見た風景を小さいスマホの画面越しに見て涙を流す。
その心境を想像し、勝手ながら自分自身の辛かった日々に重ね合わせた。
仕事で嫌なことがあって、元気が出ないときに懐かしい風景を目にした時に溢れる涙。
近くに頼れる昔ながらの友達がいなかったら心細くて当然。
もし、自分が撮影した写真や投稿したものが、誰かの心の支えになる可能性があるのなら。。
そんなふうに思わせてくれたのは、メッセージをくれた方や、コメントをくれた方だった。
”ありがとう。”と思ってくれて、ありがとう。
心からそう思った。
自分の活動に意味を見出してくれてありがとう。
2022年こそ、自分の活動に専念出来るといいなぁ。
撮影などで、実際に足を運んで気づく事がある。
目的地を撮影する以上のものに出くわす事もある。
変化していく街を、出来るだけ撮影していきたいという気持ちがあるのに、自分の生活を成立させるだけで精一杯になってしまっているのがもどかしい。
これも、興味がある事以外手に付かないという致命的な性分によるものが大きい。
集中力が続かないんよな。
生きにくさを抱えながらも自分らしく生きていき、その中で出来る事なら誰かの幸せに繋がることが出来たら素晴らしい。
本心でそう思ってる。
だけど、自分のハードルは上げすぎないようにしてる。
俺は最低な部分もあるし性格も悪いので、白い部分も黒い部分も濃いと思っておいてもらいたい。
勝手に良い人という妄想が膨らみ、勝手にガッカリされるのって思いの外危ないので。
様々な面がある。
それが人間。
いい人、悪い人みたいにカテゴライズ出来るようなものではないんよな。
誰かにとって、都合の良い人間とは限らない。
俺は俺でしか無いからな。
その上で、良いとこも悪いとこも出来る限り出していこうと思う。
俺の悪いところは生活力が皆無なとこだな。笑
金を稼ぐのも下手だし部屋の掃除も出来ない。
興味がある事をやると時間の感覚がおかしくなり集中しすぎる。
興味がない事は一切集中出来ず、ギリギリにならないと動けない。
本来、バランスや安定とかけ離れた生き方しか出来ない性分なので、ご理解いただきたい。
周りの人達に足りない部分を補ってもらっているのも大きい。
そのおかげで、季節を感じられたりなんとか生活できてると思ってる。
きっと、慌ただしい”今”という時間も、未来から見ると愛しく思えるのだろうな。
そんな日を楽しみにしよう。
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