数日かけて頑張って作り上げたものが、無駄になってしまった時に精神が崩壊しそうになる。
いつもじゃないけど、精神的に不安定な時は特に。
そんな時は、無気力になってどうしようもない。
頑張ったからといって、短期的に報われるわけではないんよなぁ。
長期的にはきっと、知識も実力も積み上がっている。。と思いたい。
ボロボロになりながらグラウンドを長距離走って、やっと終わると思った時に、「あと10周ね。」と、言われた気持ちになる。
心が砕ける音がする。
張り詰めていたものが、意味を成さなくなる。
崩れ落ち、軟体動物のように体が溶ける。
黒い渦に頭から飲み込まれ、無表情の自分の中で泣きわめくもうひとりの自分がいる。
そんなイメージ。
心のバランスを崩しかけたら、お風呂に入って美味しいものを食べてたくさん寝るのが近道だよ。
でも、そうも言ってられない時はどうすればいいんだろう。
しかも、”そうも言ってられない”状況に陥ったのは自分の実力不足だったら。
誰のせいにしようもないとき、生きていく自信を失うよね。
まったく死のうなんて思わないけど、生きていく自信を失う。
頑張らなきゃ頑張らなきゃ頑張らなきゃ頑張らなきゃ。。と繰り返す。
客観的な目線の自分が、心をどん底まで追い詰めようとする。
そして、ふと思う。
こんな気持ち、誰に言えばいいんだろう。って。
誰に言っても気を使わせてしまうじゃん。
それに、アドバイスがほしいわけじゃないんだ。
やるべきことは決まっていて、自分の人生の方向性だって自分で決める。
きっと、そのことに変わりはないし、人の言葉に影響を受けづらい。
相談をしたら、きっとアドバイスをしてくれる人はいると思う。
そうじゃないんだ。
ただただ、寄り添ってもらいたいだけなんだ。
肯定してほしいだけなんだ。
理解してほしいだけなんだ。
自分が愚かで駄目で実力不足で。。そんなことは誰より分かってる。
誰かの意見が聞きたいわけではない。
そんな独りよがりな自分の考えは、相手に失礼。
そう思うからこそ、誰にも愚痴なんて言えなくなってしまう。
自分の心を保つために、相手の貴重な時間を浪費させてしまうのか?
なんだかそれは罪な気がしてね。
それに、都合が良すぎると思われても仕方ない。
「大変だったね。今は何も考えず美味しいものを食べて好きなことをやってゆっくり眠ったらいいよ。」
ただただ、そう言ってもらいたいんだろうな。
仮に、そんなふうに誰かに言ってもらえたとしても、俺は際限なく甘えてしまうと思う。
それがもう分かりきってる。
寒い日に、あたたかい部屋で美味しいシチューが食べたくなる。
でも、叶ったとしたら、もう二度と寒空の下に自分の足で出ていけなくなるような気もしてる。
扉を開ける勇気がなくなってしまいそうな。
もともと強い人間ではないからさ。
やらないといけない(と思っている)ことを気を張ってやっているだけだから。
でも、きっとみんな同じなんじゃないかなって思った。
誰しも、完璧な優しい人を求めていて、自分を癒やしてくれと思ってるのではないかと。
自分が癒やされたいと思う気持ちが強くなればなるほど、相手が犠牲になる感じがあるよ。
それはまた違う話になるじゃん。
なんだか、そんなことをずっと考えてた。
自分も相手も犠牲にならずに自然に大切に思う人を大切に出来ることなんてあるんかなぁ。
そうだといいな。
誰もが無理していなくって、自分がそうしたいからしていて、後悔なんてしなくて。
それで成り立つのが一番いいな。
ただ、愛情の中にはその可能性を感じてはいる。
恋愛などのくくりのない人間愛。
確実に、片鱗は見えてる。
でも時間という概念を乗り越えられるのかはわからないな。
友人であれ、恋人であれ、時間が経つと少なからず関係性も想いも変化していくものでしょ。
それがすごく悲しく感じることがある。
だけど、本当はお互い様なんよなぁ。
名前がついた関係性なんてどうでも良くて、既存の定義された関係性もどうでもよくて、そこにある名前のない個別にカスタムされた関係性が許される時代だと思うんよ。
関係者の中で成立しているならそれでいい。
そのほうが面白いじゃん。
少なからず、名前がある関係性は過去の価値観も引きずってるし。
当時は、それが良しとされた。
それはいいじゃん。
ただ、今も良しとされているとは限らないでしょ。
鵜呑みにすることに意味はない。
カスタムしていい時代だよ。
理解されなくてもいい時代だよ。
少数派が繋がれる時代。
だから、弱さもズルさも何もかも、本当はできるだけ出したほうがいい。
難しいけどね。
普通の人が普通にやれることが俺には難しいなぁ。
難しい道を選んでいるというのもあるんだろうけど。
自分らしく生きるには、損しても遠回りでもそれしかないよ。
そんな日々を送っているからこそ感じられることもある。
作られていく関係性もある。
自分を殺し、空気のような人生を送っていたならお金には困らないのかもしれないけど、自分自身の気持ちを捨てることになる。
それがどうしても出来ないし、したくない。
自分は自分でしかないからな。
上手に生きられない人間もいるんだ。
俺は引きこもりになったことはない(たぶん)けど、気持ち的には引きこもりの人の気持ちがすごくわかる。
ニートの人の気持もわかるよ。
辛いよね、大変だよねって思う。
俺はたまたま実家を出て、自ら甘えを断ち切ったけど、きっと実家にいて仕事をしていなかったとしたならダラダラ仕事しない日々を過ごしていたと思うよ。
本来、そういう人間だよ。
そして、何かのきっかけで対人関係に深く傷つくことがあり引き込もれる環境があったなら、引きこもると思う。
実際、学生時代に近いことがあった。
バランスを崩してしまったなら、ホームレスになる可能性だってある。
だから、ホームレスの人の気持ちもわかるよ。
そういう社会的弱者の人たちの気持ちが分かるのって、自分が限りなく近い存在だからだと思ってる。
自覚はあるし、そう思っていることをあえて伝えたほうがいいと思ってる。
信用を失うかもしれないけど、本来の自分がそういう人間なら、それ以上でもそれ以下でもないもんな。
ダサくてカッコ悪いとこもいっぱいあって。
それでも嫌いにならないでいてくれる人がいるなら、その人達と愉しめばいいじゃん。
人がどう感じるか、そこに合わせてたら本当の自分なんて必要なくなってしまうから。
嫌われても本当の自分でいるんだよ。
どれだけ駄目な人間でも唯一、自分自身だけは自分自身を見捨てないでいられる存在なのだから。
どれだけ間違っていても駄目でも、絶対に諦めないと言いきれる存在。
自分というものが複数役割を持って存在している感覚っておかしいのかな。
本来の自分がいて、社会性を身に着けた自分がいて。
大きくはこの2つ。
だから、本来の自分に寄り添う形で社会性を身に着けた客観的な自分がいる。
この感覚があるから、生まれた時から死ぬまでずっと自分と一緒にいるのは自分なのだと感じてる。
心と身体という分類なのかな。
ちょっと違うのかな。
それはまた違うか。
そっちで考えるなら、本来の自分は心のほうかな。
そして、自分自身の体と出会い、死ぬまで一緒にいる。
自分の意識がなくなって心臓が止まるまで一緒にいられる。
変な考え方なのかな。
どういう表現方法であれ、なんだか自分の中で自分が複数いるような感覚がある。
これは、厨二病で多重人格アピールしたいとかではなく。笑
ナチュラルにね。(ナチュラルなやつが一番ヤベ〜のかな。)
自分の中にある言語化しにくい感覚を、どうにか書きたいんよ。
これからも。
そのためには正しい文章にしようとするのは邪魔。
できるだけ自由に。
文字を手書きするのと同じ感覚で。
生きにくいなぁ。
お金に困らず好きなことだけやりたい。
何歳になっても言い続けよう。
ふにゃふにゃの不思議生物として生きよう。
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