本来、人はどんな時も自分自身を大切にしていいはずなのに、基本的に社会はそうは言ってくれないもんだ。
「甘えてる!」なんて言葉が思ったより簡単に人を殺しているのではないかと思う。
本気で自分で自分を否定してしまった時に、人は自殺を選んでしまうのではないかと思う。
だから、どんなに最低でもダメダメでも最後の最後で、自分自身だけは自分自身の味方でいなければならないと思ってる。
俺みたいにクソ野郎であればあるほど。
自分のダメさ加減や愚かさなんて、他人の何倍も分かってるもんね。
他人の言葉なんかより、生まれてから今日まで自分自身を見続けてきた自分自身の言葉の方がよっぽど効くよ。
過去のことまで全部引き合いに出して責める事が出来る自分自身という存在は、一番敵に回してはならない。
最後にとどめを刺すのは、他の誰でもない自分自身なんだよなぁ。
自分で自分を責め続けて否定するのなんて簡単で、主観的な自分と客観的な自分が居るとして、主観の自分のせいにしてしまえば客観的な自分は楽なんよ。
“ガチでダメダメな自分”を否定しないのってムズいよな。笑
生きてりゃさ、誰にも理解されない事もあるだろうし大切な人に誤解されてしまう事もある。
最高の味方を失う事だってある。
そんな時、最後の最後まで絶対に味方で居てくれると信じられるのって、他でもない自分自身なんよ。
絶対的な味方が作れるとしたら、自分にとっては自分自身だけなのだと思う。
さみしい考えだと思う人もいるかもしれないけど、他人を信じないということではなく。
いろいろありすぎた。
過去にね。
人を裏切る事もあっただろうし、裏切られた事もあった。
正しい人間ではない。
ありのまま生きる事しか出来ない欲に溺れた人間だよ。
そんな自分の中にも、申し訳程度の正しさは存在しててさ。
本当、”どの口が言ってんだ”と自分で思うからなかなか口に出せない事も多いのだけれど。笑
繰り返しになるけど、自分自身のダメさ加減や愚かさなんて、自分自身が一番分かってんだ。
しょうもなさも何もかも。
でも生まれた瞬間から死ぬその時までずっと一緒に居続ける唯一の存在もまた自分自身なんだ。
仲良くしようぜ。
いつからなんだろうな。
”自分と自分”という認識をするようになったのは。
社会性を身に着けていくにあたって、本来の自分と社会性を持った自分を分ける事で整合性を保っていたのだと思う。
本来の自分が変わる事はないので。
本来の自分では社会とまともに関われないというのは自分自身が一番よくわかっていたので。
割と早い段階でそこは諦めてる。
こんなやつがまともに働けるわけはないし、協調性を持って社会に馴染めるわけがない。
だから本当の自分の考えと社会的な正解を分けて考えるようになったんだ。
理不尽な上司にあたるたび、本当の自分が心の中で叫んだ。
「なんでこんなしょうもないやつのいうこと聞くの?こいつ人間レベル低いよ?」
そういう事が続くと、意味わからん涙が出るようになるんよな。
そして疲弊する。
本当の俺は、自分自身の事しか分からないのだと思う。
知識や経験で後天的に身に着けた、本来の自分の性質とは違う社会性というものは、それ以上でもそれ以下でもなかった。
大人になったら、時間が経てば自分の一部になるのだと信じていたけれど、水と油なんだ。
生活費を稼ぐ事を目的に働く事は心から苦しい。
退屈ですごく違和感がある。
興味がない事に湯水のように時間を使わなくてはならない事が苦しくてさ。
こんなにも面白い事が溢れている時代に、なにやってんだろっていう気持ちになる。
でも、好きな事だけをやって生きていけるだけの実力も人気もお金もない。
だから結局また生活費を稼ぐ事を目的として仕事をする。
そんなので仕事が好きになるわけないじゃんね。
申し訳なく思ってんだ。
そんな自分に仕事をくれる人に。
だから、出来るだけ精一杯の社会性を使って出来るだけ”ちゃんと”やるよ。
下手だけどさ。
迷惑をかけたくないし、相手に不快な気持ちになってもらいたくもない。
仕事をくれる人がいなければ生活さえ成り立たないのだから。
それなのにこの精神姿勢。
すべてが本当の気持ち。
俺は生活費を稼ぐために生まれてきたのではないのだと思う。
もっともっとやりたい事があって我慢が出来ない。
カッコつけるのはやめた。
数年前にね。
だめな自分を出したくてこのブログを作った。
崇高な人間ではない。
ただ、ダメダメな部分を出しまくってみて思った。
悪いところだけでもないよ。
いいとこも悪いとこもある。
いいとこだけでも悪いとこだけでも駄目なんだな、きっと。
久々にブログを書いてる。
こういう、書いてる場合じゃない時にこそ書きたくなる。
だからついでに最近よく思う事を書いておこう。
感覚的な話なので意味わからないかもしれないけれど。
きっと魂みたいなものは湖みたいに本来は一つだったのではないか。
人間という器の中に入れるために、一滴一滴に分かれた。
そして死んだらまたあの湖に戻る。
こう思う理由は、人の感情が自分の中に入ってくる事があるから。
自分と他人が全く関係ないのであれば、画面の中の人に感情移入なんてするわけがない。
関係がないのだから。
でも、他人が悲しそうにしている姿を見てどうにかしてあげたいと思ったり、楽しそうにしているのを見て思わず笑顔になるのは、昔一つだったからなのだと思う。
その時の名残で伝わるのだと思う。
人間も動物も器でしか無いのだと思う。
その中に入っている魂のようなものは一つだった。
器は、目に見えるためのイメージなのでどんな形だって本当はいいのだと思う。
共通の認識として見えているものも、もしかしたら他の人の目には全く違って映っているのかもしれない。
丸は違う人の目からは丸じゃなく映っているかもしれない。
人間が万能ではないのは、退屈にならないためなのではないかと思う事がある。
湖の中から一滴として生まれ、また湖に還っていくのなら、人間の間だけでも不自由を楽しめばいいのだと思う。
いつか、自由とか不自由とかそんな次元じゃない場所に還るのなら。
不自由だと感じられる事自体が、もっと広い視野で見ると幸せな事なんかな。
名前もない、存在すら曖昧なものになったとき、記憶もなくなって”全て”となる。
不自由を楽しむために生まれてきたのなら、なんだか色々説明つく気がする。
人間としての俺は、もっと自由に生きたいけどな。
最近は、こんな事を考えてる。
あと、昨日考えたのは”選択”について。
”人生は選択の連続だ”という言葉がふと頭に浮かび、選択をするという事は選択されなかった方も存在するわけで。
その”選択されなかった方”という存在にひどく感情移入したり。笑
自分がまさに選択されなかった方という位置づけになった事があるからなんかな。
あと、”選択をしないという選択”もあるので、選ばないというのは”「選ばない」という選択をした”という事になるんよな。
だから実質、選択をしないという事は不可能なんよ。
心が追いつかなくなってくると、こんな途方も無いことばかり考え出す。
意味なんて無いのにね。
精一杯の現実逃避なんかな。
それでも生活費を稼ぐために頑張んなきゃな。
今年の年末も余裕はなさそうだ。
今年は最近までほぼずっと配信だけで稼いできたので幸せだった。
嬉しかった。
そう出来なくなる事を嘆くよりも、特別な時間を過ごさせてもらった事に感謝だ。
実力以上の日々をもらった。
ありがとう。
俺は変わらず自分らしくやりたい事だけをやって生きていきたい。
その中で、共に楽しめる時間が作れたらいい。
人間関係も変わっていく。
変化がさみしいと思うこともある。
失われていくものを嘆くよりも、近くに居てくれる人たちに感謝する。
ここからは心をすり減らしていく日々になると思う。
生活費を稼ぐ事を目的として働くというのは自分にとってはそういうことだ。
大袈裟に感じるかもしれないけど、本心はそう。
人によってそのストレスは全然違うよな。
俺はなんとかやろうと思って動いてるけど、働けなくなってしまった人の気持もとても良くわかるよ。
バカにしないし、甘えてるなんて思わない。
動けなくなるよな。
他人に理解されないであろう苦しみがそこにはあるよな。
甘えで片付けられてしまうのが恐いよな。
自分自身、一番甘えなんじゃないかと思い責めてしまうわな。
そうして自殺を選んでしまう人がいる。
ダメダメでも死なんでいいよ。
俺もそうだから。
めんどくさい事をめんどくさいと感じる事は悪い事じゃない。
本心を誤魔化していくと、自分の本当の気持ちがわからなくなるもんな。
あ〜、踏ん張りどきだな。
ここからは本当余裕なくなると思う。
かなり覚悟してる。
イメージ的に、今は冷たい水にゆっくり入っていってるところ。
慣らしながら。
どんな時も自分らしく。
ありのまま。
しょうもない自分も自分だ。
このへんにしとこ。
あ、内海町くらいには撮影行こうと考えてる。
ちょっと前に振り込んでくれた人いてさ。
人と関われるかは分からんけど、撮影には行こうと思って。
出来るだけ早めにいかんとな。
今、テストライティングやりまくってるから、そうなると時間作るのむずくなるもんな。
気にかけてくれてありがとう。
心救われる。
大変な時期であればあるほど。
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