素朴な日常ってさ、後から振り返った時にとてもとても愛しく感じる事がある。
その時過ごしてる時は、なんともないんだ。
特に何も感じない。
当たり前過ぎて空気。
だけど、後から振り返ると意識の外にあった愛情であったり、意識する事なく吸っていた空気の匂いまで愛しく感じるよ。
子供の頃、夏の日、照りつけられて熱せられたアスファルトの匂い。
陽炎の向こうに見えるトラックから出る体に悪そうな排気ガス。
うるさいくらいに鳴くセミの声。
自分の意思とは関係なく滝のようにあふれる汗。
関係なく自転車を漕ぐ自分自身の息遣い。
「暇だなぁ。」と思って玄関から外に出た瞬間の閃光のような太陽の光。
一瞬一瞬を切り抜けば特別だって分かる。
戻れなければ戻れないほど感じる。
「今」の連続の先にいるというのに。
素朴な日常の一コマを愛しさを持って大切にするにはどうしたらいいのかな。
「記録。」
そして「表現。」
この2つが組み合わされないと、感じられない気がして。
写真などでいくら正確に記録したとしても、その時の空気感までは封入出来ないと思うんよ。
心象風景と目で見た世界が違うように。
だから、表現がいる。
最近、デジタルの力を使って写真を水彩画や鉛筆画にしてみているのはこういう考えがあるからだ。
写真では足りない気がしてさ。
正しくないんだ。
いや、正しすぎるという方が表現として合っているのかな。
もっと曖昧でいい。
記憶がおぼろげなように。
思い出の風景にセピア色やモノクロや褪せた色が似合うのは、そういうことだと思う。
薄れてるんだ。
ヒントがあれば思い出せるけど、日常的に膨大な過去の出来事を全て思い出す事は出来ないように。
素朴な雰囲気に水彩画は本当よく似合うよ。
好き。
昭和レトロな雰囲気が落ち着いて好きなんだけど、高画質で高精細な写真では美しすぎるんだ。
もっとボロボロでいいよ。
だからわざと汚したり曖昧にする。
人に優しくしてもらった時の、ホワッとした感覚も水彩画の優しい表現に似ていると思う。
集中している時の感覚は、鉛筆画のシャープな感じ。
そんなふうに、表現したい感情を絵のタッチや色合いなどで表せたら、風景に感情を乗せる事も可能かもしれない。
”あの頃”を表現出来たらいいなって思う。
俺が知っている”あの頃”じゃなくてもいいんだ。
見知らぬ土地の寂れた商店街とかにも興味がある。
いい雰囲気のとこ、まだ残ってるだろうな。
あと、団地も好きだ。
かつて賑わっていたであろうその時間に思いを馳せるのが好きだ。
たくさんの子供達の声や、子供を見守るお母さんの表情などを思い浮かべるのが好きだ。
そこで起きたであろう出来事を想像することも。
想像のストーリーの舞台を、妄想のままに表現するのもいい。
自己満足でありながら、誰かの思い出とリンクするという事は珍しくないと思うから。
心で見る風景は、目で見るよりも楽しいよ。
見たままじゃなくていいから。
どんな想像をしてもいい。
自由だ。
そしてどんな表現をしてもいい。
そんな自由な世界に自分がいる事を感じられるのも、表現をする事が好きな理由なんだろうな。
走り出したくなるような衝動も、両手で包み込みたくなるような愛しさも、内から湧き上がるものだ。
表現の自分にとっての正解もそうで、誰かの目を気にしたり感じ方を気にした瞬間に面白くなくなる。
自分が良ければいい。
そんな自己中心的な考えじゃなければ、本当の表現は出来ない気がしてる。
何も譲らず表現した先の共感こそ、何にも代えがたい幸福だ。
大前提として、共感されなくても幸福だと思える事をするべきだけどね。
素通りしてしまうような素朴な風景に特別感を付与して、「ね、いいだろ?」と言いたい。
味わい深さを一緒に楽しみたいだけなんだろうな。
だから噛み砕いて見せたいんだろうな。
こういう見え方してるんだよって。
”あの頃”を知っている人も知らない人も、楽しめるといいな。
自己満足の先に幸せになる人がいるなら、それは自分が生きる意味と直結する。
やるべきことってそういうことなんだと思う。
記録し表現する。
そんなやつも必要だと俺は思ってる。
必要じゃなくてもやりたいならやるけどさ。
だから理解してくれて応援してくれたり支援してくれる人に本当感謝なんだ。
実力を発揮できない事をやるのって、人生レベルで損してる気がする。
本領発揮できる分野で生きるべきだ。
分かっていても、理解して応援してくれる人がいなければ難しいんよな。
俺がいつも助けてくれる人達を神だと言い続けているのは、俺を俺らしくいさせてくれる人は人生レベルで価値を生み出してくれていると感じるからなんよ。
かといって、媚びたり忖度はしないように気をつけてる。
上下関係みたいになってしまうと、関係性って変化してしまうので。
中には上下関係を使っていうことを聞かせようとする人も実際に出てくる。
最初はそんなつもりなくてもね。
人間ってそういう一面もあるんよな。
この歳になっても、まだまだ生き方を模索してる。
体当たりで。
生活をかけて。
本当の感謝の気持ちって、生活がかかっている時には自然に湧き上がるよ。
小手先だけじゃない感謝。
ガチで助かる!!!っていう。
その深い感情は、やはりミスると本当に詰むという状況だからこそ生まれるんだと思う。
同様に、本当に応援したいと思ってくれる気持ちも、生活をかけてやっているから生まれるということもあるかもしれない。
本当にヤバい時に救いの手が入るかどうかって、日頃の自分の活動がどれくらい価値を生み出しているかとか、普段から誰かにプラスの感情をあげれてるかによるよね。
この積み重ねがないと信頼関係もないから当然、ほとんどの場合救いの手は入らないと思う。
俺の場合、まったく狙ってやってるわけじゃないから本当ヒヤヒヤするんだけど。
心が育まれている人は、隠れた努力や労力も見てくれてんだよなぁ。
そのことにいつも感動するんだ。
見せない部分を想像してくれるから、大変さも理解してくれるんだと思う。
純粋に嬉しいよな。
そして大切なものを分け与えてくれる。
物だったりお金だったり労力だったり言葉だったり。
そのすべてが優しさの結晶なんよな。
純度の高い愛情の塊を受け取ると体温が上る感じがする。
人が人を思いやる気持ちは紛れもなく愛情だと思ってる。
毎回書かなくていいかもしれないけど、愛情とは恋愛とかそういうのだけじゃないやつね。笑
いや、一応書いとかんと「そういうつもりじゃないんですけど!きも!!」って思われてもいけんから。笑
愛に満ち溢れた空間や関係性が好きなんよ。
優しくて善意がある。
角がなくてまぁるくて。
そういうのってすごく好き。
快適で心地良いんだ。
全部ひっくるめて「愛」と呼びたい。
俺の周りでは日々、優しい世界が繰り広げられてる。
そういうの好き。
関わって心地いい、気持ちいいのがいいから。
善意に満ち溢れた人が悪意ある人に搾取されてしまわないようにしたい。
だから変なやつを輪の中に入れないようにしとるんよ。
そのために俺自身は尖っておかないといけない。
素朴な風景を愛でながら、良好な関係性の中幸せに過ごす。
これ以上の幸せって思いつかない。
心から素晴らしいと思える人達と共に生きよう。
そんなふうに思ったよ。
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