心を打つ人の存在はいつも一途だった。
それなのに、俺は気が多くてあっち行ったりこっち行ったり。
たくさんの物を求めた。
いつの時代にも俺という存在を肯定してくれる人が現れ、強く支えてくれた。
一途な人が好きだ。
とても胸を打つものがある。
純粋で真っ直ぐで。
ある種の危なっかしさも含め、その気持ちを愛しく思うようになる。
恋愛だけの話じゃなくね。
その割に、俺はすべてにおいて一途とは言い切れない。
自分の性質上、新しいことを始めたり次の展開を考えたり。
気が多い。
その非対称性にコンプレックスを感じたりもした。
自分も、誰かを、何かを一途に想い他のことなんて目に入らず、愚直に一つだけを大切に出来る人になれたらいいのにと。
何度思ったことだろう。
一つ気づいた事がある。
仮に俺が思う一途な人間に俺がなれたとして、そしたらきっとここまでのこだわりを持ってもらえることはなかったのではないか。
物事にはメリットとデメリットがある。
俺がたくさんの経験をしてこれたのは、今の価値観を構築出来たのは、気が多い性格だったからだと思う。
様々なものに興味を持ち、実践し、ある程度の結果を出し、熱を持ってやってこれたからこだわりを持ってもらえたのだと思う。
一つの事をずっとやり続ける職人のようなストイックさとはまた違う性質。
もっと広い範囲の中で興味を持ち、その経験と知識をコラボレーションさせて自分の脳内で結合して新しいものを生み出さんとする性質。
瞬間的なストイックさや粘り強さを発揮することもある。
すべてにおいて適当ということではない。
一瞬一瞬が本気なのは職人と同じだ。
俺の場合は、好きな事じゃないと本領発揮できない。
だから、自分が何が好きなのか興味があるのかをちゃんと自分の中で誤魔化さずに考えなければならない。
興味関心は常識の中にあるとは限らない。
どこまでも自由な心で自分自身と対話することで見えてくるものがある。
写真、動画、配信、コミュニティなど、複数のことをやり続けてる。
この継続性は、きっとどれか一つだけをやっていたなら生み出せない。
その時一番熱を持ってやりたい事をやり続けたからこそ。
きっと、その中には応援してくれる人が興味のないものも含まれてる。
それでも、どんなジャンルでも変わらず一途に応援してくれる人というのは心打つものだ。
俺がやってることの一部にしか興味を持たない人がほとんどだから。
当たり前なんだけどね。
そういうもの。
だからこそ、興味ないようなことでも応援してくれる人って心を打つ。
なかなか出来ることじゃないし、興味と好きな事だけを追求する俺自体の性質では叶えられないこと。
それが分かっているから心から尊敬し、嬉しく思う。
様々な活動をしていく中で、ふいに寂しくなってしまうこともある。
人の興味関心というのは変化していくもの。
俺に強く興味を持ってくれていた人が去ってしまうことだってある。
人間関係は流れていくもの。
そう自分に言い聞かせるけど、やはり自分の関わる人へのこだわりが強すぎて寂しく思ってしまう。
いつも一番でありたい。
その割に、いつも一番好きな事ばかりをやり続けたい。
相反する本心が罪悪感を生む。
昔からこの葛藤はあった。
一途さと多様性を両立するのは無理なんだと思う。
俺はなにか一つをやり続けるという一途さはないかもしれないけど、心から本当に好きなものを愛し続けるという性質は持ってると思う。
しかし、伝わりにくく誤解されやすいのも事実。
そして一般的な大切の仕方では大切に出来ないのだと思う。
好きな事を心からやり続ける自分で愛されたいというのが、昔からの心の底からの願いなのだと思う。
そんな都合いい願いがあるかよと思われるのが恐くて、言えなかったんだろうな。
人の本心というのは理解されないくらいに歪んでいるものだと思う。
だから言いにくいし、理解される可能性が低いしバカにされやすいから口に出せないんだろうな。
離れていく人を悲しむのではなく、変わらず自分の近くにいてくれる人に感謝をすることに専念しよう。
俺は猫のような存在だと自分で思ってる。
目の前の楽しいことをただひたすら全力でやり続ける能力しかない。
周りの目を気にしたり、常識で自分を縛ると能力が発揮できなくなる。
生活を維持するために、自分自身常識で雁字搦めにしてしまっていた部分もある。
こうしなければ。。と、自制して。
一般的にはいいことなんだろうけど、それは俺の本来の能力を殺すことになる最悪の打ち手でもある。
俺が本来の能力を発揮して頑張れることはかなり限られている。
お金になりにくいことでも、頑張ってみたいと思ってしまう。
情熱を持ってやり続けたなら、一点突破して突き抜けて報われる日が来ると信じてる。
だからギリギリまでまたやり続けよう。
一人でも心から応援してくれる人がいる限り、俺がやってることに意味はある。
時々、道に迷ってしまったような感覚に陥ることがある。
そんな時、一途な光で照らしてくれる人は俺の存在証明をしてくれてるのだと思った。
好きな事じゃないと頑張れない。
そのことにコンプレックスを持っていた。
好きな事なら頑張れるというのは、自分の中で当たり前すぎて能力の一部ということに気付くのに時間がかかった。
突き抜けるほどの情熱を持っていなければ、誰にもこだわりなんて持ってもらえない。
きっと内容はなんだっていいんだと思う。
その時その時、何をやっても強くこだわりを持ってくれる人が現れてくれるのは、きっと好きな事を本気で楽しむ姿が魅力的に映るからなのではないかと思う。
ネットの世界では容姿も関係ない。
ある意味、精神性だけの状態でこだわりを持ってもらうのって、よく考えたらすごいことだと思う。
逆算して出来るほど器用ではないけど、運がいいことに応援される素質は少なからず持っているみたい。
昔は、俺が人より器用に出来るから応援されるのだと、今と逆のことを思っていた。
俺が助けてあげられるからと。
きっと違う。
俺の好きなことに対する熱い思いと行動を見て「やらせてあげたい。」と思ってくれるのではないかと思う。
とてもとても優しい気持ち。
好きな事をやり続けたいのに不器用で馬鹿な上に人のいうことを聞かず無鉄砲。
ただただイノシシみたいに勢いだけがある。
子供でしかないそんな世間的には恥ずべき部分にこだわりを持ってくれているのではないかと思う。
だから一般的なことをふまえて計算して俺という存在を作ることは出来ないんよ。
自分本来の存在に近づけば近づくほど、きっと魅力は増すのだと思う。
コンプレックスの中にこそ魅力は隠れていて、恥ずかしくて隠したい部分にこそこだわりを持ってもらえる要素が詰まっているのだと思う。
俺は自分ひとりでは暮らしていけないほど偏った能力と性格。
不自由になることを恐れて助けを断っていたこともある。
でも、そうじゃないよね。
「力になれれば幸い。」と、見返りを求めずに支えてくれる人だっているんだよ。
そんな美しい心を無碍にするのは違う。
俺がやるべきことは、本当に求めているものならありがたく受け取り、全力で好きな事をやり続けることだ。
そして全力で感謝する。
力になってくれてありがとう、あなたのおかげで今があると心のそこから感謝することだ。
求めていること以外でこれほど深い感謝の気持ちを持つことは難しい。
自分で出来ることを誰かにやってもらう場合も難しい。
自分が苦手な事や出来ない事をやってもらった時に、心からの感謝の気持ちが生まれ無限の泉のように湧き続ける。
この気持ちこそ、自分自身の幸福の根源であり、俺が提供出来る最大のものなのだと思う。
この価値というのは本当に伝わりづらい。
全力で存在証明をしてくれる人を、全力で存在証明しているだけの話ではあるのだけれど。
あなたの力は、俺にとって重要なものだと心のそこから本心で伝えること。
俺は素晴らしいと思った人を心から素晴らしいと言い続ける。
感動するほどの人のことは、どれほど素晴らしいかその感動を伝える。
俺がいつも近くで関わってくれる人のどこがどう素晴らしいのか語れるのはそういう理由。
今週に入って、なんだか霧が晴れたような気がしてるんだ。
単純に梅雨明けの雰囲気から感じてるわけではなく、物事が動き出しているのを感じてる。
トンネルを抜けた可能性がある。
まだ分からないけれど。
諦めかけたその一歩先に望んだ未来が待っているかもしれない。
わからないけど、もうちょっと頑張ってみようと思う。
ただ、本当に今の生活が出来るのは長くはない。
ミルダムかYouTubeで爆発的に収益が上がらない限り、また生活費を稼ぐだけの日々が始まる。
それは嫌だ。
俺は普通のことは人並み以下。
好きな事でしか本領発揮できない。
これはなんども実際に向いていない仕事をやってみたり生活費のために仕事をしてみた結果。
想像で言ってるのではなく、やりたくな事を何度もやってみて確認した結果なんよ。
幸せもそこにはなかった。
手元にお金があるだけでは幸福にはなれないよ。
空っぽの自分と紙切れがあるだけだった。
お金もやりたいこともどちらも取れれば一番いい。
でも、両方とれない段階ではその二択なら今ならやりたい事をとる。
実際、今とってる。
幸せではあるけど、お金の心配はつねにつきまとう。
自分らしくはいられてる。
俺という存在は一人しかいないけど、お金という存在はどこにでもある。
見えないだけで。
そして、お金はほとんどの人が持っている。
俺という存在は、人々の財布の中に入っているわけではない。
わからないけど、本気でどうにかしてあげたいと思ってもらえるくらいの存在になれたなら、きっとどうにもならないことなんてないんじゃないかな。
物がない時代ではないもんな。
どこにも何もないという条件だと厳しいと思う。
物が溢れている世界の中では、人の心を動かすことができればどうにかなるものなのかもしれない。
俺がやりたい事をやりたいようにやるだけのことに、どれほどの魅力と価値があるのだろう。
失うものばかりに目がいき、壊れてしまうかもしれないことばかりを考えてしまいがちだけど、この純粋な魅力と価値がどれほどのものなのだろうと興味は出てきてる。
誰にも負けないものがあるとしたら、「好きな事をやり続ける」という力なのだと思う。
逆にいえば、それ以外なにもない人間なのかもしれない。
好きな事をやり続けさせてあげたいと思ってもらえるような存在になれるかな。
俺が猫を大好きなのは、猫はそれを実現しているからなのだと思う。
猫ちゃんには猫ちゃんらしく居てもらいたいから。
お腹いっぱいでたくさん寝て興味があることに目を輝かせて自分らしくわがままに居てもらいたいからなのだと思う。
猫という動物が実現出来ているのに、人間が実現出来ないのだろうか。
猫も人間も同じ。
人間のほうが愛されにくい要素を持っている可能性はある。
それは、言葉。
猫はしゃべれないけど行動と表情、おもに目、そして声色で魅了する。
そこに言語はない。
でもなんとなく伝わる。
動物なのにまるで人間のような狡猾さや攻撃的な態度をとることもあるけど、それもひっくるめて可愛らしく思う。
存在がかわいいと、正直なにやっても許される。
人間の場合、言葉で有利にも不利にもなってしまう。
言葉の内容と事実とに差異が生まれてしまうこともある。
猫より複雑。
愛されるのにきっとこの複雑さはいらないのではないかと思う。
こだわりを持ってもらうのに言葉は有効ではあるとは思うけど、非言語でも本当はいけるのだと思う。
感情は共通だから。
強い想いは肉体を離れ伝播する。
好きな事を心から楽しんでいる、そのときのプラスの強い感情が伝播した時にこだわりに繋がるのかもしれない。
人は、心から楽しみ続けるだけで愛されるのかな。
そんなシンプルなことってあるのかな。
赤ちゃんや子供なら可能だろうけど、大人になっても可能なのかな。
その答えって、意外と分からなくない?
一部成立することは確かだと思う。
もっとそこに特化してみようかな。
きっと生活的に死にかけるけど。笑
純粋に楽しみ続けたらどうなるの?
気になる。
やばいかな。
やばそうだけどワクワクする。
俺がただただ本気で楽しむだけ。
その時に生まれる力や影響がどんなものか興味が強くなってきた。
箸にも棒にもかからない可能性だって全然ある。
びっくりするくらい孤独になる可能性だってある。笑
でも、思いもよらない発見があったらどうだろう。
めちゃくちゃドキドキするしワクワクする。
窓の外からは蝉の声。
夏が来てるね。
どんな夏になるんだろう。
今までで一番自分らしくすごせる季節にしたい。
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