純粋な言葉というのは、必ずしも形が整っているわけではない。
本当にストレートに心に響く言葉はいつも、美しくもあり汚くも有る。
そして時にぞんざいだ。
人間の中に生まれた純粋な状態が一番響くのだと思う。
だからそのようになっているんだと思う。
大人になると体裁を整えようとする。
しかし、その事にどれだけの意味があるのだろうと思う。
角をとって、パッケージングしたかのような言葉は肌触りはいいけれど突き刺さる事はない。
大人なら、言葉をパッケージングしなければならないと世間では暗黙の了解があるように思う。
このブログは治外法権にしてある。
そんな自分がウェブライターとして何年も生きているというのは不思議なものだ。
得意なわけでも日本語が詳しいというわけでもない。
本当に自分がやるべきは、生まれて間もない感情をそのままタイプすることなのではないかと思ってる。
しかし、それではお金にならず生活が出来なくなる。
だから、お金になる誰でも書ける事を日々パソコンに打ち込むわけだ。
本質的には、あまり意味がない行為だと思ってる。
生活費のために仕事をする事が退屈で飽きてしまう原因はきっとここ。
本当は興味がないんだろうな。
きっと、こんな事書いたらいけないのだろうけど。
自分にとって不利益でしか無い事を何故か書くのがこのブログ。
よく生きてこれたよな。
ただ、仕事をくれる人には当然すごく感謝してる。
相性がいいクライアントとは長く関わらせてもらってる。
俺は自分の人生の中心を歩きたい。
生活を成立させる為に、自分自身を偽って生きるというのは、なんだか気持ちが悪い。
不器用で危なっかしいけれど、心のままに生きてる。
不器用だと分かっているやつは、きっと本当に不器用な人ではない。。と思ってる。いや、思いたいのか。
俺に客観視は必要ないんだと思ってる。
なぜかというと、子供の頃、あまりにも自分の感情しか分からずに客観的な視点がほしいと泣きながら思ったんよ。
このままでは人を傷つけていってどうしようもないと。
自分自身の自己中心的な部分にうんざりしたんよな。
最低過ぎて泣いた。
それから、ありのままの自分ではだめだと思って何重にも理想の自分を積み重ねた。
本当の自分を忌み嫌い隠した。
嫌われてしまうから。
人を肯定し、自分の意見はなくしていった。
理想通り、”空気”になれた。
その結果、俺は不要な存在となった。
俺じゃなくて良くなった。
癖は人間に必要だよ。
だめな部分は、本当は必要だった。
クリーンルームのような存在が最強だと信じて疑わなかった。
そもそも、自分の中にある最低な部分なんて簡単に変わるものではない。
俺はいいところも悪いところもたくさんある。
どちらもあって俺という存在なのに、光の部分だけ出そうとしてた。
そんな事をすれば、影の部分は人知れず巨大になっていくに決まってる。
ある日、はじけた。
”嫌われてもいいから本当の自分を出せ”と直感が言った。
すごく怖かったけれど、このブログでは全ての自分を出す事を自分自身に許した。
もちろん、出せる部分は自分で決めているので自分自身に許可をしても実際は出せるわけではない。
でも、一度許可した事で、極力出さるところまでだしていこうと思えてる。
客観視は、最低な自分を浮き彫りにするだけだ。
俺はいい人間ではないので、客観視すればするだけ、本当の自分では駄目だという答えになる。
その過程はすでに経た。
俺に必要なのは、全てを失う可能性があっても、本心でどうしてもやりたい事があるならやる!という強い意思だけだ。
大切に培った関係性ですら一瞬で失うかもしれなくても、心からやりたいと思ったらやる。
その決断は、客観視とは対極にある。
俺はどれだけ助けてくれた人のアドバイスよりも、自分の軸を貫くと決めてる。
言うことを聞かないなら助けない、応援しないという人とは違う道を行く事になる。
だから、常にありのままの自分で考え、行動しておく事が大切なんだと思う。
自分勝手で自己中心的なやつ。
だけど、心も自分なりに有る。
最低な部分もあるけど、最高な部分もある。
そうだと思ってる。
美しいものに憧れるのは、自分の醜さを知っているからだ。
美しいものに触れたいと思うのは、自分に足りないものを触覚で確かめ湧き上がる羨望の心を感じきるためだ。
醜いものに魅力を感じるのは、共感するからだ。
最低な人の中にプラスの感情を見る事がある。
共鳴しているのかな。
”そうだよな、本当の本当の本当は、そうだよな。”
ありのまま生きる潔さを持ち合わせたいと思ってる。
たくさんの人が去っていくだろう。
その代わり、より深い関係性が作れるだろう。
自分にとっての幸せはどうだ。
たくさんの人と繋がる事なのか。
少数の人とより深く分かり合える事なのか。
俺が求めているのは明確に後者だ。
この人は、自分の一部だと確信するほどに。
生まれる前から共にいたと錯覚するほどに。
人間の深い部分に触れたい。
だから深い部分を曝け出す必要がある。
弱く柔らかい部分。
簡単に傷ついてしまう部分。
その危うさには魅力もあるのではないかと思っている。
自分自身が他人にそう思うから。
このブログは誤字も文法もすべて無視していい。
その代わり、出来るだけ深層の感情をありのまま書く。
お金にはならないけど、お金より大きな価値に繋がる気がしてる。
だから書くというわけではないけど、自分の中ではそれくらい価値が大きい。
なぜかそう感じる。
だからそうする。
理由はわからないけどそう感じる、そうしたいと思える事は、きっとそうなんだよ。
脳内で感じた瞬間にこの世に生み出され価値に転化する。
丁寧に心の動きや感情の流れを味わいたい。
自分が生まれた意味の1つに、そういう事が含まれているような気がする。
自分が感じる事は、きっと世の中にいる誰かの心と似ているのだろう。
だから、思ったように発する事が、同じような誰かの心を代弁する事になるのだろう。
だとしたら、何も臆することはない。
世界に散らばった自分の欠片のような人達だけが見つけられる暗号となる。
”よくわからないけど、この人の言葉はなぜか心にストレートにくる”
と感じる事がある。
きっと、そう感じるのはストレートに発信した人の言葉をそのまま受信しているからなんだろうな。
つまり、発信する時点で出来るだけ純粋な言葉を選んでいなければならないし、出来るだけありのままの心の有様を表現していなければならないということだ。
日本語として整っていなくてもいい、その代わり生まれたそのままの感情を言語化する事が重要。
社会的には伝わりやすい日本語を使うべきだけれど、本質は少し違う気がする。
伝わりにくい日本語を使ったとしても、一部の人に深く突き刺さればいい。
言葉の矢の先の尖った部分の尖り具合や材質は、言葉の選び方や純粋さに比例する。
今日は起き抜けに、なんだか真っ直ぐ書けそうな気がして。
無性に書きたい時がある。
それが今日。
自分が書いているのか、自分の中に存在する時々顔を見せるもうひとりの自分に書かされているのか。
自分であり通常とはモードが違うようなこの感じ。
とても心地よくて。
まだまだ整えてしまっている気がする。
意味が分からなくていいからもっとありのまま書けばいいのに。
頭の中で清流の水がとめどなく流れ続けるような感覚。
起きてすぐや、深夜とも早朝ともつかない時間帯にこのモードに入る事がある。
自然に。
人間に備わっている機能なんだと思う。
ただ、社会性を身につければつけるほど失われる機能のような気もする。
誰に求められても求められなくても命がそこにあるように、自分という存在を全うすればいいんだよな。
理解されるかどうかも関係ない。
貫いていこ。
Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/naokiti3/naokiti3.com/public_html/naokiti3/wp-content/themes/mag_tcd036/functions.php on line 584
はじめまして。
あなたの文章、好きです。
勇気をもらいました。
ありがとう。
Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/naokiti3/naokiti3.com/public_html/naokiti3/wp-content/themes/mag_tcd036/functions.php on line 584
ありがとうございます。
本来自分の中で生まれては消えていくだけの言葉を表現しただけなので、それを理解してもらえることは何より嬉しい。