自分が好きだと思う事や物の本質を思考してる。
思えば、過去に俺は様々な夢や目標を掲げて生きてきた。
その本質は、自分の興味関心がある事で生計を立てるという事だったように思う。
うんざりする仕事をしたくなくて、趣味と仕事の境目さえ分からないくらい熱中出来る事だけをして生きていく事こそが俺の本当に幸せだと今でも確信してる。
昔は、表面的な事が真実だと信じてた。
例えば、雑貨屋さんになりたいとかノマドワーカーとして生きたいとか。
それは表面的な事。
手段であったりスタイルであったり。
今思うのは手段やスタイルはマジでどうでもよくて、本質の部分を叶える事が大事なのだと思ってる。
というのも、様々な夢や目的が変わっていったけど、求めているものはいつも同じだという事に気がついたからだ。
心の底から自分らしく生きる事。
出来る事なら評価も欲しいけど、そこは絶対ではないということ。
分かってくれる人が少しいればそれでいいのだと思った。
そこから逆算して考えるなら、きっと俺はありのまま生きながら深く人を理解し愛しながら生き、感謝し合う関係性を作る事がそのまま「生きる」という事なのだと思った。
この定義は人によって違うのだと思う。
俺は薄く浅く広くという事を考えたらダメなんだろうな。
狭く深く。
これをやりたい事に当てはめて考えると、恐らくたくさんの人からちょっとずつお金をもらう(仕事でも支援でもね)ことを感がえるのではなく、ニッチな世界観を心から理解し愛してくれる人で生活にも余裕がある人に応援したいと思ってもらう事なんだと思った。
あと、クォリティを追求するのもよくないと思った。いや、クォリティを上げるのはいい事だし、やりたい時にはやればいいんだけど、クォリティを絶対だと思いすぎるとよくないのだなと。
多分、クォリティより関係性を深める事をもっとやったほうがいい。
クォリティはそれからでいい。
関係ないけど、先日YouTubeにアップした走島の動画、もうちょっと画質上げれると思うので上げようと思う。
フルHDだからいけるかと思ってたけど、思った以上にビットレート低かった。
スマホで書き出してるから、スマホで見ると気にならなかったんだけど、改めてパソコンで見るとちょっとな〜。。って思った。
あ。。クォリティにこだわってしまってる。笑
いや、これはいいと思うんよ。
いや、これはこだわらせてよ!(なんのいいわけ)
絶対編集かけないといけないとかサムネつけないといけないとかそういう部分な。
やりたい事に付随するちょっとめんどくさく感じる事をやるべきではないってことな。
で、一番いい画質で書き出そうと思ったらスマホの容量いっぱいになっちゃって。
スマホに入ってる写真とかをパソコンに移動中。
去年の東京旅行おごってもらった時の写真をチラ見しながらこれ書いてる。
やっぱ最高だな。
思い出って。
東京旅行おごってもらったんよ。
嬉しかった。
今でも感謝してる。
おごってくれた方、篤志家やん。ってなった。すごい。
いや、あれマジでコロナ禍だったら成立してない事たくさんあった。
特に神輿とかパレードのとこなんか、絶対無理だったと思う。
人が居すぎて進めなかったからな。
パレードは優雅に赤坂見附でビール飲みながら、近くにきたら様子見に行くみたいな感じだったけど。
あれもさ、招待してくれた方が行きつけのお店に前日くらいから頼んでくれて席空けてもらってたんよな。
すごい。
赤坂見附を東京にきた時のホームにしたらいいよ!!って何度もおすすめされたの今考えたら笑う。笑
よっぽどおすすめだったんじゃろうな。
でも、数日滞在してみてなんだか分かった気がしたよ。
快適で心地よい場所だったので。
なんていうんだろ、昼は自然に上品な印象を受けた。
夜は気取りすぎずよそ者が入りにくいという雰囲気もない。
そういえば、あのフーターズ閉店したんだよな。
あのタイミングでしか行けなかったと思うと感慨深い。
ブログにまとめたいなぁ。
やっぱ写真撮るのはiPhoneで良かったと思う。
だからiPhoneだけは本当いつも最新にしときたいんよな〜。
外付けで広角のコンバーターとかつけて撮ったりしてたけど、新しいやつだったらいらんしな。
あとはマクロレンズだけ標準でついてくれればいいんだけど求めすぎか。
あ、ましかく写真でまとめようと思ってたあの企画、もうましかくにこだわらなくていいかと思ってきた。
ましかくにするのにそもそも手間がかかりすぎるので、その手間を億劫に感じて作業が進まないくらいだったら、そのままの感じでアップしてしまったら話早いよなぁって。
これも、変にこだわりすぎないという事の一環でそう思った。
本質はそこじゃないだろって。
心の中と現実世界が一致した時、本当に幸せだろうな。
実現するには、きっとたくさん失敗してたくさん恥をかいてたくさん理解されずに苦しむだろうな。
でも、その結果、必ず少数の人達は理解してくれるだろうな。
最高の人達だけそばにいてくれればいい。
分かってくれる人だけ分かってくれたらいい。
自然に距離は確定していく。
俺がどうこう考えることではない。
自然にできあがっていく関係性を愉しめばいいよね。
長く一緒に楽しんでいける関係を求めてる。
俺にこだわりを持ってくれている人に俺もこだわりを持つ。
他人と思われているなら当然他人だよな。笑
俺から先にこだわる人もいるかもしれない。
俺からこだわる人って、本当素晴らしい人ばかりだと思う。
いいとこばかり見てるわけじゃなくてさ、まるで子猫ちゃんのように不器用なのに興味津々でいろんな所に行ってみて迷子になってしまったり木から降りれなくなって困り果てるような事態になったり。
愛すべき存在。
上手に出来るからいいんじゃないし、正しいからいいんじゃないよ。
そういうのどうでもよくて、真っ直ぐに興味に向かって走っていたり、真っ直ぐに好きな事を突き詰めていたり。
そういう姿勢ってすごくいいと思う。
常識的に見たら偏りすぎて不安定に見えても、本人がそれで幸せならいいじゃん。
好きな事を楽しく一生懸命やってる姿ってとてもいいからな。
その内容はなんだっていいじゃん。
ゲームでも自然を楽しむでもコーヒーを愛するでも。
好きな事をしている人というのは、かわいらしい。
猫が満足そうに眠っているのを見るのと同じ気持ち。
変に大人ぶらずに、ありのままいるのが人間かわいいんだと思うよ。
その結果、関われなくなる人もいるだろうけど、その分他の人が近づいてきてくれるんだろうし。
無難にいく事は愛されることから遠ざかると思ってる。
確かに、誰かにとって都合はいいだろうけど、都合がいい事と愛される事は別でしょ。
愛される事は嫌われる事でもある。
感情がどっちに振り切るかの違いだけじゃん。
どっちに振り切るかは相手の価値観次第だから、そんな事考えてもしょうがないし、正直知らね〜よって話じゃない?
媚を売っても自分らしく生きても、どちらにしても気に入ってくれる人も離れていく人もいるよ。
だったらありのまま生きたほうがいいね。
誰かが自分の生き方を理解してくれるかどうかというのは、自分の生き方を自分で選ぶ際の判断基準にはならない。
理解されなくてもやりたいようにやるのが一番気持ちいい。
何をどうやってもメリットとデメリットがあるのなら、そんな事考えずに損してもいいからありのまま生きるのがええよな。
もっともっと理解されないような判断をして、もっともっと自分らしくいようっと。
その上で、継続して積み重ねて結果を出していこうっと。
どうせ結果を出した途端に手のひら返してくる人ばかりなんだから。
理解されない段階で理解を求めてもしょうがないよね。
自然に理解されるときがくる。
自分自身が自分自身の価値や可能性をうたがわなければ。
分かりあえない人の事考えてもしょうがないもんなぁ。
分かってくれる人がいるのに、分かってくれない人の事を考えるって勿体無い。
それだったら、分かってくれる人にさらなる感謝の気持ちを持つほうが建設的だよ。
好きな事の本質を突き詰める時期なんだと思う。
表面的な事は捨てて、より本質に近づく。
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