普通に生活していて普通にそこにあるものに幸せを感じ続けるのは難しい。
貧困は今も続いていて、想像を絶する貧困を経験した人にとって僕達の「普通」は天国のようなものだろう。
だから何を持っているかという事が幸せの定義なのではなくて、何を経験したか、その振り幅が大きければ大きいほど実感として幸せを感じるのだと思う。
貧乏でも幸せな人もいれば金持ちでも不幸な人はいる。
比較的色々アクションを起こしてきたので色んな事を経験してきた。お金がある時もあれば無い時もあるし、周りに人がたくさんいてくれる時もあればほとんど誰もいないときもある。健康な時もあれば不健康なときだってある。
そこそこの振り幅はあると思ってるけど、良い時も悪い時も開き直るという意味ではなく受け入れる事は大切だと思った。
現状自分がどういう状態なのか。どうしたいのか。
昔から人が去って行く時に大きな痛みを感じてきた。とても仲良かった人が離れていくこと。
何もアクションを起こさなければそもそも知り合う事もない。出会いが無ければ別れだって無い。何もない。
SNSのフォロワーやリストなど、ふとした時に去った人に気づく事がある。
心の中はさみしい気持ちで満たされると同時に楽しかったときを思い出す。
ここでどう思うか。昔の自分だったらきっと、自分がフォロー切られたら悲しいので切らないようにしようと思うのだと思う。
今は少し違っていて、ただ受け止める。相手によってそこから先に生まれる感情は違うけれど。
誰かが去った時、同じことを人にするのが心苦しく感じてしまうのは当然の事だと思うし、俺も数年前まではそうだった。
自分を見つめ直した時、その気持ちが自分をがんじがらめにしている事に気付いた。
合わない人、むしろ少し嫌いだと思っている人まで繋がっていたけれど、違和感はずっとあった。
ここ数年はそんな事もない。
周りにいる人の人数は減ったけど、不快に思う事が極端に少なくなった。
人の重要な判断基準に「恐れ」があるが、恐れで判断した事は度々選択を見誤る。
本当はどうしたいかという事と、恐れは対極にある事が少なくないからだ。
恐れを基準に選んでしまうと無難な選択になり、逆に自分の首を締める事もある。
嫌われてしまう事、その事により人が去っていくこと、悲しい気持ちに変わりはないが悲しくとも避けようとすればもっと居心地の悪い事になる。
自分も合わなければ切る事もあるし、相手から切られてもしょうがない。
自分らしく生きるという事はそういう事だ。万人に受け入れられるような生き方は出来ないのだから。
本当の自分を隠して共感を強引に作り出し仲良しごっこをすることは容易い。
それが悪い事だとも思わないけれど、俺は本当の意味で繋がる事を選びたい。
表面上笑いあっていても本当は影で悪口を言いまくるみたいなのは悲しい。
誰にでも好かれるような人間ではない事くらい、自分で一番わかっているので、そんな人間はそんな生き方を選んでいこう。
変に合わせようとしすぎると余計におかしな事になるし合わせたのに嫌われたってなると一気にしんどくなるのは目に見えてる。
合わせても合わせなくても一定の人には好かれるし一定の人には嫌われるという事を今の俺は知っている。
価値観が多様化しているので当然のことだ。
多数派や一般論にわざわざ自分を合わせにいく必要はない。
当然叩かれやすいし否定されやすいという事にはなるけれど、本当の自分として過ごしてそうなるのであればそれは仕方のないことだ。
合わない事を嘆くより突き抜けるほど自分という存在を突き詰めて個性を出していこう。
少数派の同じ感覚の人が分かってくれるならそれでいいし、誰も分かってくれなくてもそうしよう。
自分という存在と誰かの理解は別の問題だろ。
誰も理解してくれなくても生きていていいし、存在していいんだよ。
少数派であればあるほど、同志を見つけた時の感動は深いものだ。
どこにでもある感覚を流行りのように使い捨てるよりも自分にしかない感覚を研ぎすませていくほうが人生レベルでは価値ある事。
誰かが理解するとかしないとか、否定されるとかされないとか昔は気にしなかったはずだ。
尖ったり新しい事をすれば誰だって叩かれる、ネットがあるから叩きやすい、それが今の時代なのだからそろそろ慣れてもいいだろ。
人の目や価値観を気にしなくなれば一気に心が自由になるはずだ。
どんな自分の感覚も思考もそこに存在していいのだと自分で許せば許すほどに感覚は深く研ぎ澄まされていく。
自分の言葉で文章を書けなくなった時、きっと周りの目を気にしてんだよ。
表面上の共感は移りゆく。流行りのように。
深い部分の共鳴はこだわりに変わる。どこにでもあるものではないから。
明るさも暗さも同じ。感覚というくくりの中で善悪をなくし自分でさばくのを辞め、真っ直ぐに見渡した時本当の姿が見えるだろ。
どんどん頭の中が静かになっていって時間も関係なくなって本当の自分との対話が始まる。
向き合うべきはいつだってそこだ。
自分自身との対話の中で外部との関係性の答えも出る。
だって、全てはどうしたいか。だから。
動かせるものなんて限られてんだよ。でもずっと想い続けられればそれだけ動かせる力は増していくし可能性も高くなる。
生まれた時から死にゆく時までずっと一緒にいてくれるのは親でも兄弟でもなく、自分自身だよ。
いつだって絶対的に味方でいてくれるのは自分自身だ。
人との関係性は変わっていく。止められない。
自分自身との関係性がしっかりしていれば何度だってやり直せる。
人が集まってくる場所に人は集まってくるのは当然の事だけど、そういう人達は去っていくのも早いので基本的には信用していない。
俺が信用するのは初期の段階で来てくれた人や、俺自身にこだわりを最初から持ってくれてる人達だ。
みんながいいと言ってるから「良い」と思い込んでる人はオセロのコマにすぎない。
ひっくり返れば順当にひっくり返っていく。
みんなが悪だと言い出せば「悪」だと言い出すだろう。
みんなが再び戻ってくればそいつも戻ってくる。
存在していないのと同じなんだよ。ただの数字でしか無い。そこに関係性はない。だから信頼もない。
そんな事に一喜一憂するのは馬鹿らしい。
分かっていても心が痛むことがある。馬鹿馬鹿しいけど。
これからも人と関わっていく事は続けていくけど距離感や人間関係に対する考え方は更新していく。
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