色んな事があるよなぁ。
でもそれでも幸福だなぁと実感する。
そもそも俺は不満だらけの人間だったのに、いつからこんなふうに幸福度が高くなっていったのか。
その事について、ちょいちょい書いていきたくなった。
プラスもマイナスもない、感じたままに綴っているこのブログだけど、もちろんそれだけでもいいんだけど、プラスアルファ何かしたい。。やらないといけないのではなく、したいと思ったので考えてみた。
人の心がよくわからない事が多かったから、心理学を独学で本を読みまくって一生懸命理解しようとしてた時期がある。
もともと俺は全く空気も読めず(今でも上手に読めてないけど)友達も少なかったし、人に不快な思いをさせてしまう事を悩んでいた。
とても強気な自分と弱気な自分が共存していた。
してた。。っていうか、今でも変わってないかな。
幸福度が高くなったなぁと感じたのはグラデーションのように少しずつだったので、ハッキリこの時期から!という事はないけど、様々な経験と、物事についてどう感じるかを洗練していった結果だ。
もう、何年も前から「他人は他人、自分は自分。」という言葉を使ってる。
これは珍しくもなんともない言葉ではあるけど、本来自分の中に備わっていた言葉だ。
他人という言葉を使う事で、冷たい人という印象を持たれるかもしれないし、実際にそういう事言わない方がいいよと言われたことがある。
人によってはそういう捉え方をする事もあるだろうなぁ。
でもまあ、俺は冷たいとは思わんからそれでいいかな。
当たり前だけど、自分の考え方と、他人(自分以外の人)との考え方は全然違う。
ということは、見えている世界や、同じ事が起きた時の感じ方も違ってくるわけだ。
常識に当てはめて考えている人は、常識から少しでも外れてる人をみると裁こうとする。
裁判官でもなんでもないんだけどね。
それはおかしい!間違ってる!と言ってくる。
間違ってるって何を基準に言ってるんだろう。
。。やはり、常識に照らし合わせていってるのか。
でも常識って時代に合わせて変化していくものだし、常識と思って信じている事さえ人それぞれ違うんよね。
それなのに、それを人にまで強制しようとする。
イライラしている人は、大概この自分の中の常識っていうのがたくさんあって、それに当てはまらない人を見て勝手にイライラしている。
でも、それはその人の問題であって、俺は正直関係ない。
俺も、人に対しておかしいなぁ。。と思う事はある。
あるけど、自分の考えと人の考えは違うという事を理解しているのでイライラする事は少ない。
幸福度が高いもうひとつの理由は、適度な距離で人と接しているからだ。
無理に付き合いに応じないといけないとか、嫌いな人にも笑顔でいないといけないとか、そういうのを辞めたからだ。
愛想よくして誰にでも好かれるように。。なんてやってると、まっさきに来るのは吸血鬼だ。
実際、俺の周りの愛されるべき友達は本当にいいやつなんだけど、マジで吸血鬼みたいなやつらに取り囲まれてる。
吸血鬼っていうのは、全てのエネルギーを吸収しまくって、関わると自分の周りから大切な友達ですら奪っていくようなやつらだ。
歪んでんだよね、考え方が。
色んな考え方あってもいいと思うし、実際あると思うけど、関われる人と関われない人は自分で決めたほうがいい。
流れるまま、誰彼構わず関わってると、めちゃくちゃしてくるやつもいるからだ。
合わない人の周りには合わない人がたくさんいる傾向が強いので、俺は個人的には合わない、嫌いだと思った人に関してはその周りの人まで出来るだけ切りたいと思う。
友人の友人でつながってると、そのレベルでもエネルギーを奪われるからだ。
仲間だと思われたくないしね。
その人がいいとか悪いとか言いたいんじゃなくて、個人的に俺は関わらないということ。
その人がどういう生き方をしようと俺とは関係がないからだ。
その人がどう俺を裁こうと俺は関係ない。
同様に、俺がその人をどう裁こうとその人にとっても関係ないわけだ。
人の考え方まで自分の「正しい」で判断していると、ストレスが溜まるし辛い。
無数の価値観あるんだから。
そんなの統一出来るわけないのに、あいつもおかしい、こいつは間違ってる。。なんてやってたらそりゃ生きヅライよね。
今は、自分の考えはとことん追求して、人の考え、合わなかったとしても深く考えない。
究極は平行線なんだから。
分り合おうとする気持ちは大切だけど、全ての人に対してする必要はないんじゃないかな。
だって、深く関わらない人だっているし、分かり合えない人も実際いる。
その人はその人の人生、自分は自分の人生を楽しめばいい。
そんなに大したことではない。
強い「正しさ」を自分の中に持っている人は苦しんでる。
よく考えてみれば、誰もが自分なりの正しさを持っていて信じている。
人からすればその正しささえ間違ってんだ。
自分からすれば人の正しささえ間違ってんだ。
間違ってると思うから指摘したら相手は攻撃されたと思って反撃してくるんだ。
こっちは攻撃した覚えがないから、あっちが最初に攻撃してきたと思って反撃するんだ。
相手からすれば、最初に攻撃してきたのは向こうなのに、反撃したら更に攻撃してきたと思って本格的に戦い出すんだ。
お互い、自分は正しい、相手から攻撃してきたから反撃してると勘違いしてる。
正しさなんて、ないんだよ。
正しいと自分が信じているだけなんだよ。
その正しさを振りかざさなければ仲良く出来たかもしれないのにね。
正しさの押しつけは本当に迷惑だ。
自分の中で抱えていればいいだけのものだし、もっと言えば捨ててしまってもいいものだったりする。
極論、人それぞれ正しさって違う。。という事は、存在しないに等しいんだよ。
誰にどのように育てられて人生の中でどういう経験をしたかってことが正しさを形成してる大きな要因だ。
そして、親との関係性、大切だと思っている人との関係性、そこで起きた悲しい出来事。
それらが正しさを形成していってんだ。
心が傷ついた時、どういう納得の仕方で自分を慰めたかだ。
どういう考え方で自分を守ったかだ。
その時はそうするしかなかった。
けど、もう大丈夫なんだよ。
時間は経った。
恐い人はもういない。
それでも体を強張らせて心のナイフを振りかざしてんだよ。
そのナイフを捨てて、出来事に対しての解釈を再考してみるのもいい。
ゆっくりコーヒーでも飲みながら。
正しさは自分を守る為に大切なのかもしれない。
けれど、そもそも何から守ってんだろう。
全て幻想なんじゃないか。
正しさも敵も。
自分の心の柱を正しさを持つことで保ってるんだろ。
吹けば飛ぶような繊細な心を守ってんだろ。
人は人の考え方でいい。
自分も自分の考え方でいい。
一つにしようとするからどちらかが我慢しないといけなくなるんだ。
誰もが自分の考えを大切にすればいい。
もちろん、一緒にいれなくなる人は出て来るし離れていく人も出てくる。
だとしても、離れていくのであれば考え方が自分とは違った、それだけの話しだ。
自分が間違っているという証明にはならないんだ。
そもそも相手も自分も「間違い」ではない。
個人の人生においてはこういう考え方をしてる。
コミュニティに関しては、創設した人間とそこに参加する人間でまた違ってくるとは思ってる。
価値観の統一の為にルールがあるからさ。
そういう事についてもまた改めて書いていきたいね。
たくさんの本を読んだり様々な事を経験して自分の中で構築してきた思考の基準。
誰かの心が軽くなりますように。
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