自分の考えと人がどう思うかっていうのは一致しない事がよくある。
自分と、自分以外の人とは当然別人なので、そんな事があってもおかしくはない。
どんな物事も、両面があって、そのどちらか片方しか見なければ悪者にも見えるだろうし、良いようにも見えるだろう。
最近、優しいですね。と、言われる。
昔から怒ると恐いとも言われる。
これはどちらかではなく、どちらも本当だと思う。
優しい人。
恐い人。
どちらか一つにおおまかに決めるというのは不可能だ。
優しい時もあれば恐い時もある。
当然のことだ。
特にここ数ヶ月は喜怒哀楽を極力出すようにしている。
その事によって、関係性も大きく変化していくだろう。
しかし、最適化されるだけなのだと思う。
俺に必要な人や物ならばどういう形であれ、良い形で残る。
俺は、在るが儘いる。
どういう状況であれ、自分を生きる。
恐れからくる行動を極力とらないようにしている。
可動域が狭くなってしまう感じがあるからだ。
誰かの問題と自分の問題を同じラインで考える事は辞めた。
全て別物だからだ。
今からもっともっと自分らしくなっていく。
誰かに理解されなくとも。
せめて自分自身だけは、自分の喜怒哀楽や感じる事をそのまま認めよう。
人は、状況が変われば去っていくことだってある。
そのことは経験から学んできた。
どれだけ味方だと思っていても、どれだけ信頼していても、そんな事は関係なく人が離れていく事は過去に何度もあった。
価値観も関係性も変化していく。
だから自分自身をしっかり持っていこ。
俺が今、日課のように継続している事、これは時間がかかるかもしれないけど、確実に積み上げていけば大きな財産となると俺は信じている。
まだ小さなものだけれど、俺だけは信じてる。
今、喜怒哀楽をハッキリする事によって直感を取り戻していってる。
自分の中のNOを取り去る事で心を自由にしていくと、体が勝手に動く、思考がそっちに向く感覚。
根拠なんて深く考えなくていいんだ。
そうしたいから、する。
それだけでいい。
脳の深い部分で、きっと何かわかってんだろ。
自分自身への信頼。
外の世界は様々な事で「罪悪感」を植え付けようとしてくる。
罪悪感を持ち、恐怖やマイナスな感情を原動力にして動き出すのは違うと思ってる。
今やってる事が俺にとっての正解だといつも自分自身を信じる事に決めてる。
不安になったって意味ないから。
先の事なんてわかんないけどさ、先の事を根拠もなく心配したり、心配する要素や不安になる要素を一生懸命かき集めてマイナスな感情をわざわざ自分で自分に植え付ける必要なんてないんだ。
今、必要だから今やってる事があるんだろ。
周りの声に惑わされる事もない。
自分の中にしっかりと進むべき道を持っていれば。
世の中の善悪に極力左右されずに生きていきたい。
世の中的にNOな事でも、個人的には問題ないと思う事もざらにある。
一般的にドン引きな事も、俺は別に、そういう事ってあるよね〜。くらいにしか思ってない事だってある。
感覚が違うからさ。
そこにも昔は罪悪感を感じていたけど、俺は俺の感覚の中で生きればいいと今は思ってる。
どれだけ偉い人の言葉を聞いても、結局は自分自身の声に耳を傾けなければ幸せになんてなれないしね。
人の言葉を聞く前に自分に聞けよって思うし。
客観的な考えが大切な生き方や価値観の人もいるだろう。
でも、俺はそういうのの真逆なんだよね。
つい、少し客観的に見たり考えてしまうけど、本当は我が道をなりふりかまわず突っ走るべきなんだ。
どれだけ理解されなくとも。
突き抜けないと駄目だ。
中途半端ではダメ。
自分で自分を理解できないくらい、クレイジーだと思えるくらいになりたい。
ある種のストイックさと適当さ、相反するものを一つの体に存在させたい。
思うように生きていいんだ。
俺だけではなく、誰もが。
もっと自分の深い部分にたどり着きたい。
俺は俺を大切にしようと決めた。
そして、大切にしてくれる人を周りに置くべきだと思った。
ルールとかマナーとか礼儀っていう言葉が嫌いだったんだけど、自分を大切にする上で俺の基準で失礼だと思う言動、行動をさせないようにと考えた時、結局それはルールの設定だった。。
深く考えた時、ルールを守るのが嫌いだったんじゃなくて、意味がわからないルールに理由もわからず従うのが嫌いだったのだと気づく。
そして、意味がわからなかったのは、深く理由も知らない指導者が言葉だけでルールを取り仕切っていて納得のいく返事をもらえなかったからだった。
学校とか会社とかね。
そもそも方針と合っていないのに半強制的にいってたのがよくなかったんだろうな。
俺は自分の感覚で好き嫌いを設定すればいい。
理解出来ない人はさようなら。
そんな自分勝手な事、許されないと思っていた。
でも嫌われてもいい、ひとりぼっちになってもいいから自分自身を自由に生きたいと思い、そういう行動と言動を繰り返していくと、意外と理解してくれる人が出てくる。
本気で孤独になる覚悟があったからこそ、関わっている人がいなくなっても耐える覚悟があったからこそ出来たことだ。
我儘に振る舞うというのは勇気がいることだった。
空気を読まないと嫌われると思い込んでいたから。
そしたらそんな現実を引き寄せてたんだな。。
嫌われる覚悟を持って行動すれば、本当に嫌われる事ももちろんあるけど、そんな中で理解してくれる人も出てくる。
嫌われる以上のいいことがあると思った。
そこで縁が切れる人もたくさんいるよ。
でもそれは価値観が最適化されただけの事。
何人もそうやって離れていった。
しかし、それ以上に新しく素晴らしい価値観の合う人達が応援してくれるようになった。
自分が好きな事を最大限時間も労力もお金も使ってやりきれば、理解されなくても自己満足で満足度高いし、理解されればもっと幸せだし。
どうやっても不幸になんてなんないんだと思った。
幸せは人が決めることじゃなくて自分がどう思うかだもんね。
ホームレスでも幸せな人もいれば大富豪でも不幸な人だっているよ。
周りが決めることではない。
自分の中の空虚な部分は自分自身で埋める必要がある。
外部に理由を求めていたら死ぬまでそれは続く。
人のせいにしていたら楽かもしれんけど同じような出来事が何度だって起こる。
今、日々新しい人達と知り合い、理解出来ない人をキッパリ切ったりしてる。
出会いも別れもたくさんだな。
本当最適化されていってる感じがすごい。
極力、思い入れがある人とは縁遠くなりたくないという気持ちがある。
しかし、すごい力が働いてる気がしてる。
恐らく喜怒哀楽を出すようになって本来の自分に近づき、人間としてのエネルギーを放出してるんだと思う。
変な表現だけど、そんなイメージがある。
3ヶ月後、どうなってるんだろう。
自分でも想像がつかない。。
様々な事が大きく変わっている可能性がある。
恐れることなく、もっと自分らしくなるよ。
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