マイナスな部分を垂れ流す人を見て、
「あ〜、人間らしい、響く。」
と思える相手と
「うわ。。関わりたくね〜な。。」
って思う相手の違いってなんなんだろ。
ただの独り言には嫌悪感を示さないが、独り言と見せかけて
「大丈夫?」
という言葉を待ってる人に、ちょっと。。って思ってるんかなぁ。
そうなのか?
一概にそうなのか?
結局、自分が好きな相手や気に入ってる人のマイナスは受け入れられるが、そうじゃない人のはそうじゃないのか。。?
いや、でも会った事ない人のマイナスな言葉も響く事がある。
深いか深くないか。。これかもな。
甘えとマイナスって、イコールではないと思ってる。
マイナスな感情は必ず出てくるもの。
それを素直に表現することと、マイナスを使って人に自分の満足のいかない現実をどうにかしてもらおうとするのは違うもんな。
このへんの違いがわからないから、自分もマイナスを出す事に抵抗があるのかもしれない。
出さないのが無難。
でも、どこかで吐き出したいわけで。
自分の至らなさの原因は自分にあるわけで、個人的なマイナスを誰かに共感してもらえるとも思ってない。
あくまでも、このブログは吐き出す場所であるべきだ。
唯一、ここだけだから。
基本的に人に相談しないからせめてここだけ。
マイナス寄りな精神状態がデフォルトな人でも、嫌な感じがしない人がいる。
基本的に人のせいにしてないというのが分かる人。
きっと、自分にそこが似てるからなんだろうな。
落ち込みやすくてすぐ苦しくなっても最後のところでは人のせいにしてない人。
そういうのっていいよね。
人間らしさや「味」っていうのは、マイナスな所にあるのだと思う。
マイナスは、あったほうが親しみがわくもの。
何をどうするべきなのかはまだよくわかんないけど、うまく付き合っていくべきものなんだろうな。
マイナスもプラスも深く在りたい。
あまり出さないけどさ、闇は深めだとは思う、自分のね。
どんよりしたくないからさ、あまり出さないけど。
マイナスとプラスの落差とコントロール出来るかどうかっていうのは、人の器と呼べるものなのではないか。
落差を小さくするっていうのは難しいと思う。
一度知ってしまった概念を消せないように。
だから、コントロールする事を考えるべきだ。
出していい場所を作ったりうまく抜いて。
このブログはまさに「抜く」作業用なんだよな。
自分は器が小さいと自覚している。
大きくしようと頑張っているわけでもないけど、小さくともこの器を誇れるようにはありたい。
周りが不格好だと言っても、
「これでいいのだ!」
と、バカボンのパパばりに言い切りたい。
依存度の高いマイナスや人に迷惑をかけるマイナス、自分に危害が加わるマイナスとは距離を考えなければならないが、誰もが持ち合わせているマイナスを素直に表現する事に置いては共感を呼び親近感に繋がる事もある。
自己完結のマイナスであればいいのかもしれない。
最近はそう思うようになってきた。
人は人。
自分は自分。
楽しまなきゃ。
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