自分の中にある時は、ありありと感じられるのに、どうして言葉にしてしまえばこれほどまでに薄っぺらくなってしまうのだろう。
そして感覚的な事を正確に伝える術がない。
何をどうやっても正確に自分の中の感情を正しく表現する事が出来なくて悲しくなることがある。
もし、出来るとするならば擬似的に写真にそのイメージを乗せてみたり、言葉もそのものよりも抽象的な物を選んだほうがより感覚的に伝わるような気さえしてくる。
しかし、そんな表現方法ならばルールが無いので受け取る側にも寄るわけだ。
結局、何をどうすればいいのか。。なんて、この歳になってもわからないから言葉にしている。
内面をどこまでも追求していきたいと思うのは、全ての原因も答えも自分の中にあるのではないのかと思っているから。
これは、自分だけではなくて全ての人がそうなんじゃないかと思ってる。
原因を生み出すのは自分の心なんよな。
悩み事を悩み事だと認識しているのは自分の心であり、何を悩み事として定義するか、何にストレスを感じるかっていうのは人それぞれなんだ。
だから一概には言えないしそれぞれの悩みがある。
悩みが自分の中にあり、誰もがそのポイントも違うのであれば、答えも人それぞれ違うはずなんだ。
価値観と照らしあわせて問題の本質は何かを考え答えを導き出すしかない。
悩み事というのはマイナスな感情の時が多い。
ストレスがかかる事に対して解決策を見いだせないから悩み事になるんよな。
悩み事は人生の中のほんの小さな要素だ。
しかし、それで頭がいっぱいになる事がある。
視野が狭まるんよな。
どんな悩みの中でも変わらず自分を表現していけたらいいのに。。と思うけどまだ出来そうにない。
精神状態に依存してしまう。
あまりにも大きな問題の場合は無気力になる。
そうなると悪循環だよね。
自分の中の形のないものを表現したいと思う時に、物凄くエネルギーが必要になるんよな。
出来るだけ精神状態はいつも安定しておきたいし、不安定になる要素は排除しておきたい。
自分自身が不安定になると、いつもなら笑えるような事も笑えなくなるしね。
人と関われる状態じゃなくなる。
昔から関わってる理解ある友人は、
「あ〜、いつもの事か。」
って感じでいい適度な距離でいてくれる。
その事が凄くありがたい。
落ちてる時はそっとしておいて欲しいんよな。
昔からだけど、嫌なことがあった時は慰めて欲しいわけじゃなくて、ただただ一人になりたくなる。
自分に起こった現象についてじっくり考えたいんだろうな。
きっと、理解力がないんだと思う。
ゆっくり自分の中で噛み砕いて考えないと相手は攻撃しようとしたんじゃない。という事がなかなか理解出来ないんだと思う。
非常にめんどくさいやつだ。
自分でもそう思う。
だからこそ、あえて書こうと思った。
子供の時からそうだ。
様々な局面で表現力がない。
誤解される事も多い。
誤解されないように言葉を使うと無駄に長くなる。
下手。
誤解される可能性がある!と思ったら聞かれてもないのに言い訳がましく先に説明してしまう事がある。
それが逆に怪しく思われて誤解される!
悪循環!
だからもういいや。って。
本当の事は自分の中にある。
誤解されてもさ。
しょうがないよ。
原因は自分だ。
失うものもあるだろうが、真っ直ぐに行ったほうがいいような気がしてる。
今はね。
まず、俺はこういう人間っていうのをハッキリさせとかんといけんわ。
色んな面あるからこういう人間!って言い切るの難しいけど。。
嘘つきながら人と関わってるわけじゃないしな。
いくつもある本当の自分の側面をその都度考えて変えているだけで。
友達と取引先に見せる自分はどちらも本当の自分だけど、別人のように見えるだろう。
そんな感じ。
いや、取引先に。。は本当の自分とは違うのか。
パーセンテージなのかな。
どこまで本当の自分なのかってのは。
まるで迷路のように言葉を補完する言葉を紡ぎ、その言葉が誤解されないようにまた言葉で補完し。。
なんなんだろ!!
心の中に「本当」があればいいや。
不器用さは変わらない。
人に自分を決められたくなくて必死なんだろうな。
ちっせえな、自分!
しゃ〜なし!
俺は俺を生きるとしよう!
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