SEOガン無視なタイトルをつけると心がザワザワする。笑
職業病か。。
個人としての理想を追求したい。
自分の一存で自分の人生を決めたい。
そもそも綺麗に隠されていても、本来は自分の一存でしか自分の人生は決められないはずなんだ。
誰かの言うことを聞かないと悪い気がしてしまうのは、長年かけて洗脳されたか自分が経験から間違って学んでしまったからなんだろう。
俺みたいに、自由にいこう!常識を基準にするな!
みたいに叫んでるやつは、一番自由に劣等感を感じ、常識にビビってるんだよね。笑
だって、自由であり常識が関係ないなら、空気みたいな存在なはずで、意識する事すらないはずなんだ。
でも叫び続けたいんだ。
いつか、自分の表現が枯れるまで。
現在の自分を受け入れていきたい。
どんな時も。
どれだけ最低な自分がいても、どれだけダメな時があっても、今は「そう」なんだから。
一旦受け入れ、噛み砕いて理解してから歩き出さないと。
その為に、周りに急かされたりアドバイスをもらうのは違うと思ってる。
だって、そこから何を学ぶのかは自分の問題なわけで。
急かされたり何か言われると少なからずその影響を受けてしまう。
このブログを見てアドバイスをしてこようとしてくる人もいるけど、ありがたいけど俺は俺のやりたいようにしか出来ないので気持ちだけ頂いておきたい。
誰かに何か言われたらその通りしないと誠実じゃないと思われてしまいそうで恐いんだろうな。
まだ見てない映画のラストを先に言われてしまうのってなんかモヤモヤするじゃん?
そこから何を学び取ろうか考えてる時に、自分の内側から湧き上がってくる前に誰かの言葉を自分の体内に入れられるのってそれと似た気持ちになるんだよね。
興味が出る前に答えを教えられても何も感じないし、それを続けていくと嫌になる。
まさに学校の勉強。
懇願するくらいに興味が湧いている時に学ぶから身につくんだ。
体験から学ぶのはまさにそういう状態なんよな。
俺が基本的に人に相談しないのもそういう理由かな。
どうせ自分の好きなようにしかしないんだし。
俺の考えが誰かの都合にマッチするとは限らん。
だから不機嫌にさせてしまう事もあるだろう。
でも自分の軸をしっかり持つというのはそういうことだ。
相手は相手の価値観と立場で考えているわけだから、その人にとって求めているような行動を俺がとれるかどうかはわからんのんよな。
誰もが自分の軸を持って、お互いが気持ちよく関わっていけたらいいのにと思う。
勝手な考えだけどね。
あくまでも俺の考えね。
そういう意味では結構ドライな考え方なんかなぁ。
まあ、それはそれで。
ここ数年でもしかしたら今一番自分と向き合っているのかもしれない。
いや、向き合うジャンルと深さが違うだけかな。
いつでも考えてはいるから。
今は深い部分、根本的な部分を見直してる感じ。
時には立ち止まって自分の心や、出来れば価値観までカスタマイズしていけたらいいと思う。
常識の枠の中で収まりきらない人って結構おると思うんよ。
そんな人が常識に当てはまろうとする事は、大きな体の人が小さな箱の中に入ろうとする行為と同じだ。
もともと体が小さな人なら小さい箱でも無理なく入れるわけで。
常識の中でも快適な人だっているんだ。
快適な人はいいじゃん。
幸せだったらいいと思うんよ。
でも、合わない人も確実に存在していて、問題なのは一律な教育を受けているので合わない事がイコール「悪」だと認識されやすい事。
結果を出せば認められるけど、出せなければ変人扱いで終わり。
不器用な人だってたくさんおるんよな。
自分の中に軸を持つ事で、常識というのはあくまでも社会を構成してる要素の一つという事がわかるし、そういう視点になる。
無視は出来ないし、尊重するべきではあるけど自分個人の生き方として必ずしもその中にいないといけないというわけではないだろうね。
山の中に住んでもいいわけだし。
個人の意思を、もうそろそろ尊重してもいいんじゃないだろうか。
自分のも。
相手のも。
自分と相手が一緒じゃない事が「悪」という価値観を捨ててもいいんじゃないだろうか。
個性を賞賛し合いたい。
誰かがやりたい事を本気で応援する事で得られる幸せもある。
応援される幸せもある。
色んな幸せの可能性も模索したい。
猫にご飯をあげる幸せってあるじゃん。
気持ちよさそうに眠っているのを見るだけで幸せな気持ちになったりさ。
俺は猫を自分で飼った事はないんだけど、猫の幸せはいつも願ってる。
不思議なんだけど、猫の事はずっと大好きなんよな。
とにかく外見が美しいのと性格が可愛いからなんだろうな。
特定の猫じゃなくても大好きっていうのは不思議。
猫は個性があったり顔がぜんぜん違うから判別出来るレベル。
唯一無二。
こだわったらその猫じゃないとダメ!ってなると思う。
猫は愛される側だけど、猫を愛している人に確実に幸せな気持ちをあげてる。
もちろん猫はそんな事考えてないだろうけど、事実、人間は幸せな気持ちになるんだ。
植物に水をあげる人も同じ。
植物に幸せをもらってる。
対象物の幸福を願い行動する事で、実は行動している人「与えている側」が一番シアワセを感じてるんだよな。
これはよく感じる事。
昔はこんな幸せの感じ方って俺の中にはなかった。
多分、愛される事に意識がいってた昔に比べ、愛する事に意識がいってるからなんだろうな。
愛する対象がいるというのはとても幸せな事なんよな。
家族、友人、異性、物、動物、様々な対象がいると思うけど、その中で一つ・一人でもいればそれはもう人生においてとてつもない幸せだ。
だから猫を飼おうかと何度も考えたけど、自分よりほぼ確実に先に死んでしまう存在に愛情を注ぐ覚悟が出来ずにずっといる。
その悲しみはとてつもないだろう。
猫の寿命は平均で15年とも言われてるね。
15年も一緒にいて死んだら本当に本当に悲しいだろう。
今は野良猫ちゃんと遊ぶ事で精一杯かな。
幸せを感じさせてくれる対象にいつも感謝したいな。
自分の思ったように生きる事で誰かに幸せを感じさせられるような猫のような存在になろう。
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