8月、9月くらいから仕事の内容が変わっていき慣れるだけで手一杯になってる。
それまで自分の活動に専念したくて優先順位を自分の活動にしてた。
またギリギリの状態になり仕事に専念せざるを得なくなったので頑張ってる。
どこまでいっても自分は自由に憧れ、自分らしくいたいんだと再実感。
自分らしくないと感じた時に一気に苦しくなり冷めた気持ちになる。
自分らしくいられないなら自分じゃなくていいじゃん。って。
昔からこの気持ちが強すぎる。
仕事の内容は流動的。
相性がいいと思っていたものが実はそうじゃなかったり変更があったり、かと思えば他の仕事からは更に仕事を振ってもらえたり。
そのバランスが保たれ今がある。
しがみつかないようにしてる。
いくら単価が高くても違和感を感じながら仕事をしていくのは自分らしくない。
社会的には褒められたものではないけれど、なんのためにフリーランスになったかといえば自分らしく生きるためだしね。
雇用されてた時と同じことしてもしょうがないじゃん。
従わなくてはならない状況に陥りたくないなら、従わなくていい環境を自分で作らなければならない。
不器用でも下手でも、がむしゃらにやっていれば道は開かれる事が多い。
手探りでやってよくここまでこれたなと本当に思う。
何度も助けてもらったり気にかけてもらいながらやってきたなって。
自分らしくいられるのは、自分らしくいると決断した自分と理解ある周りの人達のおかげなんだ。
自分だけでは途中で詰んでたと思うから。
最近、仕事以外に何かをやるという余裕がない。
まったく時間がないということはないのだろうけど、感覚的にそう感じるのは心に余裕がないからなんだと思う。
他に何かをやろうとするとバランスを崩しそうで。
だからまずは目の前にある仕事をやる。
ずっと同じことをやっていれば、いずれ余裕も生まれてくるんじゃないかな。
ちょっと前に風来のシレンというゲームを配信でやるようになった。
あのゲームは少し進むとルーティンがメインになる。
でも、いつも同じことをやっているはずなのに育成状況によって微妙に目的が変化していってるのを感じて面白いと思った。
最初のうちは持ち物をたくさん持てるようになるアイテムを集める。
それが終わったら武器と防具を育てる。
大きな目標としてボスを倒すというのが漠然とある。
そのために、同じような作業を繰り返すんだけど目的が変化していってるんよな。
秀逸だと思った。
最初は十分な量のアイテムを保持できないので、必要そうなものを捨てたり売ったりしなければならなくて心が苦しかったけれど、これは現実世界の自分にもあてはまると感じた。
必要そうなもの、まだ使えそうなものでも捨てなければならない時はあるし、案外捨てても問題なかったりする。
また手に入るしね。
買うことだってできる。
死にはしないんだ。
スペースが空けば効率的に整理できたりたくさん持てる状態を維持できる。
厳選し洗練するということは心の余裕にもつながる。
本当に必要なものってそんなに多くないんだろうなって。
本当に必要なことに集中する時、バリエーションやコレクションを犠牲にしても、たった一つのものを育てたほうがいいしそれを実現するきっかけとなる気がした。
ゲームを通じて概念を学んだというか。
俺はゲーム実況で収益を得ているのでゲームをする時間は浪費ではなく投資といえる。
使った時間と労力は失ってるのではなく積み重なってるんだ。
収益もそうだけど配信でやることでコミュニケーションのきっかけにもなってる。
そんなふうに捨てるところのないやり方をしていきたい。
とはいえ、直感人間なので論理的じゃなくても自分がやりたいと思うことを優先していきたい。
誰に理解されなくてもやりたいことはやる。
人に意味ないとかダメだとか言われてもやりたいならやる。
たくさんやりたい事がある中で仕事以外ほとんど何もできていない状況は苦しいけれど、最終的にこの期間は自分の活動に集中するための投資の期間ともいえると思った。
そういえば、昔は「頑張る」という言葉が大嫌いだった。
頑張るという言葉の中には「やりたくないことを気持ちに反して頑張る」という印象を強く感じるから。
そもそも好きなことや興味があることなら、頑張ろうとしなくてもいつの間にか夢中になるし義務感なんて感じずに調べたいから調べたり練習したいから練習する。
そのどれもが努力だとか頑張るという概念とは程遠い感覚だった。
努力が必要なことって、やらなければならいこと、やったほうがいいと思いこんでいることに対して実力が足りてないからやることだと思ってる。
頑張るということも同じ。
今は、自分の心の中で積極的に「頑張ろう。」と言い聞かせることがある。
やりたくなくても必要なことならやって損はない、その先に自分が思う自由を勝ち取れればいいのだと。
今はまだその兆しは見えないけれど、自分らしくいられる時間がある、そのことこそが自分にとっての幸せそのものなんだ。
だからすでに幸せであり、そこから先はプラスアルファ。
これは眠りに落ちる時によく感じること。
お腹が満たされ身の危険を感じることなく柔らかい場所で眠りにつける。
こんなに幸せなことはない。と。
あまりうまくいっていない時、食費をよく削ってみるけれど、その時にも一般的に質素な食事だとしてもお腹いっぱい食べられているなら幸せだよな。
ギリギリな状況とピンチを乗り越えることを繰り返していく中で、そんな境地に辿り着いた。
立派ではないけど、自分に言い聞かせるわけでもなく湧き上がる幸せを実感できるようになったのは嬉しい。
何に幸せを感じるかは、誰かと比べるものではなくて自分で見つけるものだったんだな。
なぜなら、人によって幸せを感じるハードルは違うしどういうものに幸せを感じるかも違う。
最低限の慎ましい幸せに身を任せられたなら、それ以上の幸せはすべてプラスだ。
様々な体験をして一般的な「普通」を自分は普通と感じなくていいと思った。
誰かにとっての普通はその人にとっての普通であり、俺の普通とは別でいいんだと。
自分にとっての普通は自分で作っていいのだと。
もちろん、社会と関わっていく中で社会的な「普通」の感覚は知識として知っておくべきだと思う。
そこから目を背けたいのではなく、自分一人の時には自分の感覚を優先していいのだということ。
昔の自分が「頑張る」という言葉自体が嫌いだったけど、自分の中にも頑張りたいと思っている部分があることに気がついた。
自発的に頑張りたいのならそれは苦しいものとは違う。
そういう気持ちになっているなら、頑張りたいだけ頑張ればいいし頑張りたくなくなれば別にすぐに頑張らなくなったっていいんだ。
すべては自由なのだから。
ありのままの自分をまず自分の中で認めた時にそんなふうに思うようになった。
最低なとこも最高なとこも一度認識して、その上で反省したり直したいならそうすればいい。
そうしたくないならそうしなくたっていい。
間違っているなら何度でも頭を打つだろうしその時にまた学ぶことになる。
そのたびに省みればいい。
もうちょっと仕事以外何もできない時間が続くかもしれないけど、今はそんな時期なのだと受け止める。
漠然とした焦りはあるけれど、自分が自分らしくいられるなら後のことはきっとどうにかなる。
余裕が生まれたら色々やりたい。
ホームページ・サイトの構成について考えていて、こういう感じたことをダラダラ書くものはまた思考日記のブログでやってホームページは自分の活動の総合案内所みたいな構成にしようかと考えてる。
総合案内所的な感じにした時にこういう内容の記事ばかり上がるのはバランスが悪い。
やれる時にやれることをやろう。
継続可能な楽しめるやり方ですべてのことをやっていきたい。
基本的には興味があること以外やっていないから。
仕事は生活のためにやる部分も多めだけど、いずれ違和感のないやり方を極めたい。
極端に違和感を感じることがあればその都度選んでいこう。
自分らしく。
自由に。
そのテーマはずっと変わらない。
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