忙しくなってくると心のバランスを崩しやすくなる。

だから忙しい時に限って心が風邪を引く。

つまり精神的に不安定になる。

こんなブログ書いてる場合じゃないし寝ないといけないんだけど。

 

文章を自由に書くことは自分にとってのお薬。

何にも囚われず、めちゃくちゃな文章でも許される自分のテリトリー。

それを再確認できるのが嬉しいんかもな。

 

誰にも邪魔されず誰にも文句を言われない。

そういうのが好きだ。

どこまでいっても自分勝手。

でも人間、本来そんなもんだろ?

 

うるさいやつなんていらないし好きなようにやりたい。

だから実力をつけて自分のテリトリーの中でやるしかないんだ。

 

「普通」って難しいよね。

なかなかよくわからなくてさ。

一人でたくさん本を読んで勉強した。

 

多分、俺の中の普通は、普通の人にとっての「とんでもない。」だ。

 

判断基準もそうだし価値観もそう。

社会性が求められる場面では、謎の「”普通”の準備」の時間がいる。

 

あ、ダブルクオーテーションの左側が間違ってるとかそういうのどうでもいいよ!

色々知りすぎると言い訳がましくなるのがよくない。

でも小さいことをうだうだいうやつっておるじゃん。

マジそういうのいらんのんだけど。

小さいことをうだうだ言う人のどうでもいい指摘を回避することに終止するのってつかれるよね。

いや、わかってやってますけど!?ってなるのもめんどい。

 

だから、結局、小さいことをうだうだ言う人と関わらないように人間関係を構築していくしかないんよな。

ネット上は壁が作りにくいから難しいのだけれど。

 

仕事以外の文章のときくらい自由にやらせてくれよと。

誤字脱字大歓迎。

間違ってても意味が伝わればいい。

そうじゃん。

言葉ってそういうもんじゃん。

 

正しい文章を書いても気持ちが伝わるかどうかは別の話し。

荒れた文章の中にこそ感情が光を持つんだよ。

ぐちゃぐちゃな感情を文字通り殴り書くほうが好きだな。

 

脳内の言葉をそのままアウトプットしたようなさ。

それができた時に初めて文章は、言葉はお薬になるんだ。

 

 

「普通」を押し付けられてきた反動は、まるで定期的に呼び起こされるトラウマのように涙を流させる。

「あの時どうしていれば。。」なんて普段思うことはないけれど、精神状態がこういうモードに入った時はどうしようもないね。

 

子どもの頃の記憶から何から引っ張り出してきてかき乱す。

子どもの頃はさ、ファミコンのソフトをレジに持っていって買うのが難しいくらいシャイだった。

その割にわがままでもあった。

 

自分の代わりに誰かに「これください。」と店員さんに伝えてもらいたかった。

なんていえばいいんかわからんかった。

 

学生時代、友達の友達と遊ぶことになった時、初対面でうまく馴染めない中、友達はいつもどおり友達の友達と遊んでいて自分ひとりがポツンとして「来なきゃよかった。」と思ったことがあった。

その時の自分は甘えた気持ちがあったので、「もっと気にかけてくれたらいいのに。」と思って悲しくなった。

 

人に求めていたんよな。

だから寂しく悲しくなってた。

 

でも、徐々に人に期待するべきではないという考えにいたった。

自分が望んだことを他の人が叶えてくれるとは限らないと。

それが当然だと今は思う。

自分と他の人は別の人だし。

 

それでも、”そう”してほしかったんよな。

その、他人に話すと甘えという一言で片付けられてしまう気持ちを本当の意味で理解してあげられるのは自分自身しかいないんだよな。

どこまでも甘えた考えに、まずは寄り添ってあげ、そこから共に成長しようと考える。

 

子どもの姿かたちをしたもうひとりの自分と手をつないで生きてきたんだ。

そいつの願いを叶えるために「普通」を学んだもうひとりの自分がいる。

そいつに社会性からかけ離れたところで自由に遊ばせてやれるように。

 

この気持はなんだろうと考えた時に、自己愛なのだと思った。

今、生活していられるのはこの二人の自分がいるからなんだ。

だけど、忙しくなってくると子どもの自分が騒ぎ出すんだろうな。

 

もっと自分らしくいたい、もっとやりたいことをやりたいと。

走り回って叫びまわって、デパートのおもちゃ売り場で駄々をこねる子どものようにジタバタしながら恐竜のような声を出す。

 

でもさ、それ自体が人間のかわいらしさなのだと思った。

冷たい顔をして平然を装う姿よりも、見苦しいほどに欲望に忠実な姿に心打たれるよ、俺は。

だから見苦しい自分を消さないように灯火を両手で守るようにしながら冷たい顔をした自分が生まれたんだ。

皮肉なものだけれど。

 

そうじゃなければ社会の中で揉まれながら本来の自分を守ることができなかった。

 

人は心を守るためにもうひとりの自分を作り出すのだと思う。

必要に応じて何人でも。

そこまでして守る価値がオリジナルにはあるんだよ。

 

オリジナルの自分を失ってしまったら軸がなくなる。

 

弱くわがままで素直な自分というのは他者にとっては見苦しく邪魔でしかないと思う。

肉体が別々というのは、やはり同じ肉体の精神と比べると理解度が大きく違って当然。

 

精神状態が不安定になると、今までたくさんの人を好きになって、何人かの人が好きと言ってくれたけれど結局みんないなくなっちゃったな。。なんて考える。

自分が意識していないところでガッカリさせたり傷つけたに違いないんだ。

もしくは、単純に興味を失われてしまったか。

そういうことを考え始めると沼だよね。

 

底のないベッドに寝転んでゆっくりとどこまでも沈み込んでいくような気持ちになる。

ズブズブと。

暗くて水の中みたいで。

泣きつかれて起きたら幾分かマシな精神状態になってるということを何度も繰り返してきた。

 

相手が悪いなんてことは絶対にないんだ。

相手だって自由なわけだし。

自分自身の魅力の有無についてもさ、どれだけ魅力的な人だって大切な人が去ってしまうことってきっとあるじゃん。

もちろん、魅力はあるにこしたことはないんだけど。

本質はそこではないと思ってる。

魅力をつけるということから目を背けるということではなくね。

 

なんだか、人間はそういうことを学ぶために生きているような気さえしてくるんだ。

様々な愛情の形があってさ。

恋愛はその中の一つにしかすぎなくて。

 

無償の愛をくれる人に興味がある。

もともと俺は無償の愛をあげられるような人ではなかったように思うから。

見返りを求めずに人に優しくする人の気持ちが最初はよくわからなかった。

意味がないような気がしていた。

それくらいドライだったんよな。

 

でも、見返りを求めず継続的に優しくしてくれる人に接することで、その人を理解しようとすることで、自分自身に置き換えることができるようになってきた。

相手が喜んでくれるということは嬉しいことなんだなって、実感を持ってわかるようになった。

 

俺が生きてる中でさ、時代によって結構キャラクターが違うような気がする。

経験によって変化してきてるから。

最低な部分はきっと今も持ってる。

だから過剰な期待は不要。

ガッカリさせたくはない。

良い人だとは思わないほうがいいけど、それでも純粋に人の幸せを願う。

黒い欲望も真っ白な気持ちも全部本当なんだな。

人間の中ではそれは両立するのだと思う。

矛盾ではなく、必然的な光と影として。

 

想像力がない人は、相手の光だけを見て影を見た瞬間にガッカリしてしまう。

これは恐いこと。

たとえば、ヒカキンさんがちょっと悪いことをしたら必要以上にがっかりする人出てくると思うけど、ヒカキンさんだって人間じゃん。

仮に過去になにかやらかしてたり今言えないようなことをしていたとしてもおかしいことじゃないよ。

彼だって聖人ではないのだから。

 

誰もがそういう視点をもてたなら、みんな自由になれるのに。

ネット上で監視しあってさ、息苦しい。

他人が他人に悪い意味で興味持ちすぎてんだよな。

自分のことに夢中な人はあまり他人の悪い部分に興味がない。

そんなことより楽しいことがたくさんあるからな。

 

まぁいいや。

本当、それこそ人のことはどうでもいいね。

自分がどうかだけでいいや。

 

今日の仕事は

・早朝に1記事書いた

・早朝にデータ入力の仕事終わらせた

・昼前に1記事書く

・昼からデータ入力の仕事

・日付変わるまでに2記事絶対書く

・請求書送る

・ちょっと特殊な仕事、確認程度

 

くらいか。

合間に食料品を買って仕事以外何も考えなくていいようにしたい。

そしてできれば配信もしたい。

あと、原神の公式生放送見たい。

これはどちらにしてもリアルタイムでは見れないので寝る前に見れたら嬉しいくらいか。

 

抜けがないように気をつけなきゃ。

とりあえず3時間くらい寝よう。

 

猫が草を食べて体調を管理するように、俺は文字を書きなぐって精神状態を整える。

以上。