人の悪意ってバカにならないと思ってる。
それこそ、健康を害する原因となるほどなのではないかと。
ちょっとしたストレスの積み重ねは呪いのようなものなのだと思う。
人間には想像力が備わっているので、他人の1の悪意を10にも100にも感じてしまうことだってある。
ただでさえ、存在しない悪意を存在していると認識してしまうことがあるのに。
言うまでもないこと、勘違いかもしれないと思うようなこと、そういうのが一番モヤモヤする。
相手を疑って、もし違ったら嫌われるかもしれない。
そんな”真っ当”な考えが自分自身の心を壊してしまうことだってあるんよ。
勘違いさせてしまうような言い方をしてしまう相手にも非はあるのではないか。
悪意がないならなおさら、無意識に勘違いさせてしまう言い方をしてしまっているなら教えてあげたほうがいい。
被害者を増やさないために。
皮肉、遠回しな言い方、どっちともとれるような物言い。
これらは、確実に1ミリずつ心を削っていくんだ。
だから、こういう話し方をする習慣を持っている人と関わるなら少なくとも指摘し、それでも変わらないなら距離をとったほうがいい。
相手がどう生きようが自由だし、変わらないのも自由。
そもそも、相手の価値観では悪いことではないのかもしれない。
相手は相手の考え方、自分は自分の考え方、交われないならそれも良し。
譲れない部分を譲ってまで繋ぎ止める関係性は、本質的には破綻していていつか限界がくる。
日々、感謝の気持ちが込み上げてくる理由を寝起きに考えてた。
答えは、「悪意に触れていないから」だった。
徹底的に人間の悪意から遠ざかった結果、関われる人は極端に少なくなったけれど、幸福度が上がり少ないつながりに心から感謝できるようになった。
周りに親切な人しかいないと世界は変わって見えるよ。
無駄に不快になることもない。
気分がいい時に、無駄に水をさされるのが大嫌いなんだ。
学生時代、楽しい会話を気が合う人としていて、横から面白くないやつが入ってくるのが嫌だった。(ひどい。笑)
当時の自分は今より尖っていたので、「つまらんやつ、はいってくるな!」とか思ってた。
横から入ってきた割に自分の話しかしない人とかね。
いや何しにきた。ってなった。
俺の性格の悪さと、その手のタイプの人とは相性が悪い。
「知らんがな。」とか思っちゃってたな。笑
一方、好きな人至上主義なので自分の周りにいてくれる人たちのことは1時間でも良さを語れるくらい好きだった。
具体的にこの人のここが面白い、かっこいい、かわいい、好きっていうのがあるんよ。
そして、多分そういう自分が気に入ってる人たちが例え横から入ってきて自分の話をし始めたとしても
「うん、うん、それで?ほ〜!なるほど〜!いいね。」
と聞く。
げんきんなやつ。
そう考えると、「何を」言うかではなく、「誰が」言うかがだいじなのか。
遊ぶ時も、何をやるかより誰と遊ぶかが大事なんよな。
おもろいやつとは何をやってもおもろい。
話がそれた。
悪意を持っている人が近くにいるというのは想像以上にストレスがかかっているということ。
これは解放されて初めて気づけることだと思う。
こんなに重かったんだ。。と。
人は、もっと快適に生きていいんだ。
もっと自分らしく生きていいんだ。
自由は自己責任の世界にしかない気がしてる。
やはり、誰かに何かを握られてるとそれはどこまでいっても自由ではないんよなぁ。
自分が自分らしくいることで文句を言ってくるやつには気をつけたほうがいい。
極力、自然体で関われる人と関わるのがいいね。
ネットの世界でもそう。
自分らしさを表現していたらそこに共感してくれる人が残ってくれる。
そうじゃない人は簡単に去っていくけれど、それは仕方のないこと。
たくさんの人との接点になる場所なのだから、田舎の村のような考え方はしなくていいのではないか。
ネットで人と関わるときは特に、悪意がある可能性がある言葉は指摘するようにしてる。
それは、お互い無理に関わる必要がないからこそしやすいもの。
言葉の裏に真意を込めて投げつけてくるやつっておるよな。
そういうやつに限って善人ぶる。
カバートアグレッションってやつ。
あの手のタイプに名前がついているということは、世界中にいるってこと。
つまり、よくある話ってことなんよな。
罪悪感を引き出そうとするので、罪悪感なんて無視ね。
それは性格の悪い俺と相性が良いのかもしれない。
良い人ほど困惑してしまうだろうから。
代わりに言ってやりたい。
朝が来るたび、うんざりすることはなくなった。
会いたくない人に会わなければいけなかったり、小言を言われまくるというのが目に見えてたら、誰だって朝から憂鬱な気持ちになるよな。
そうならない生き方を継続したい。
自分にとってはお金より価値があることだと本心で思っているから今のワークスタイル、ライフスタイルに落ち着いたのだと思う。
どちらもあるにこしたことはないけどね。
どちらか一方をまず選ぶなら、お金より自分らしい生き方だったんだな。
相変わらず偏った危なっかしい生き方しかできないけれど、興味のままに生きられることを今も望んでる。
人の悪意に触れて疲れてる場合じゃないよ。
世界は面白いことで溢れているのだから。
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