自分自身のしょうもない部分も最低な部分も、少なくとも自分の一部なわけで。
反省、成長していきたいと考える今現在も、自分自身のしょうもない部分を引きずって歩いていく。
いつも思う。
一度、自分の中で全部認めて歩いていこうと。
他人は関係なくてさ。
自分自身の内面で自分自身に嘘はつけないじゃん。
嘘の奥まで見えるから。
その状態で本当に感じること。
それを大切にしてる。
最近は、心の奥底から湧き出る感謝の気持ちを感じきるようにしてる。
感謝の気持ちを持つことって、やろうと思ってできるものではないんよな。
そして、感謝したふりをすることは簡単だけど、上述した通り自分自身に嘘をつくことは不可能なので、本当に感謝の気持ちを持っているかどうかは自分自身が一番わかるんだ。
ポーズは必要ない。
嘘のない部分で自分の根幹となる部分でどう思っているかが大事だと思ってて。
クズはクズなりに、マシになりたいと思いながら生きてんだ。
内面から湧き上がる純粋な感情やイメージを表現したいといつも思ってる。
言葉で、画像で、動画で。
どうもうまくできないのだけれど。
へんてこでもいいから。
理解されなくてもいいから。
自己満足でもいいから。
言葉の意味を超えた感情を直接貫通するような表現を求めてる。
よくわからないけれど涙が出るような。
一瞬でイメージの世界にダイブできるような。
表現が訴えるイメージが頭を掴んで振り続けるような。
そんなのがいい。
ずっと、そんな作業をしながら命を消耗していたいな。
興味のないことは一切やらずに。
それが自分にとっての幸せであり究極の姿だ。
生活のための仕事は、本心では違和感しかない。
だけど他の方法が思い浮かばない。
だからできるだけ自然体でやれるものを探してる。
こっちも仕事で相手も仕事で、相手は月給で働いていて、こっちは成果報酬でさ。
校閲として意味のない修正を入れてくる人が嫌いだ。
上司への「仕事してます感」を演出するために、どっちでもいいことをわざわざ修正入れてくる人。
そうしないと駄目な体制を作ってしまっている会社にも問題があると思うし。
過去に、そういうことしてきた会社とこちらから縁を切ったことがある。
仕事は大切だしありがたい。
生活のためにお金も必要。
だけど、そんな意味のないことに付き合ってられるかよ。
外注のフリーランスと接してるその担当が、その会社の顔となっていてすべての印象になってしまっていることに気がついたほうがいい。
一人の人物の未熟さや相性の悪さによって、本来もっと長く関われるはずのところと関われなくなることもある。
まぁ、代えが効かないほど貴重な人材でもないだろうし問題ないだろうけどな。
1年の間に何回かマジでうんざりする時があってさ。
なんのためにやってんだろとか。
いつかは終わりがくる人生の中で、今しかできないことなんていくらでもあるのに生きてるだけで精一杯でしょぼいなとか。
もっと自由に生きたいのに。
誰もが、ありのまま生きていけたらいいのにとよく思う。
でも、諦めてない。
不可能じゃないと思うんよね。
無理、不可能なんていうなら、俺が10年以上フリーランスを続けられてること自体がフリーランスになる前からすれば無理で不可能なことだったわけだから。
やってみないとわからないということは実証できたわけだ。
だったらこの先も、やってみないとわからないことだらけだ。
ありのままの姿で自由に生きること。
多くの人が望んでいるはずなのに口に出してる人をあまり見たことがない。
多くの人が望んでいるというのは幻想という可能性もある。
俺が強く憧れすぎているから、俺がこんなに良いと思っていることを他の人が気にもとめていないわけないって。
昔に比べ、心が育まれてきたよ。
それは、見返りを求めず優しさをくれた人達のおかげなんだ。
人間の優しさや愛情の可能性を見せてくれたから。
それを見たことがなければ、にわかには信じられないことばかりだっただろうな。
自分から手を差し伸べ続ける人の姿は美しいよ。
時には、親切なその手を振り払う人もいるだろう。
それでも「自分がそうしたいから。」と、手を差し伸べ続けられる人。
心から尊敬する。
そんな人達との繋がりが心の中の氷を溶かしてくれているのだと思う。
いつも、どんな時代も人には恵まれるんだ。
何度助けられてきただろ。
時に優しく、時に力強く。
そうしてくれながらも俺の意思を尊重してくれる人達ばかりだった。
自分には価値がある。
そう思わせてくれていたのは、いつも「あなたには価値がある。」と、行動で言葉で伝え続けてくれた人達がいてくれたからなんだな。
人は、褒めて伸びるものだと思ってる。
ある種の勘違いでもいいんだ。
その勘違いが可能性を見せ、やがて嘘が真になることさえある。
もともと可能性の片鱗が本当にあったなら尚更だ。
放っておいても、いつか頭は打つもんだよ。
頭を打ったり怪我をするのがダメなんじゃないんだ。
死なないことが大事。
頭を打っても治ればいい。
頭を打たないようにする方法を教えるより、受け身の取り方や治療法を教えるほうがええよな。
過保護にされすぎなかったことが、今の自分を形成してる。
逆に過保護なくらいに守ってくれた人のおかげで救われた瞬間もある。
厳しい時も、守られている時も、どちらも意味があったんだ。
そしてどちらかだけでもダメだったんだろうな。
他人の冷たさも、他人だったのに身内のようなあたたかさも、出会いが教えてくれた。
改めて血の繋がりってすごいんだということも実感してる。
どれだけ離れても血の繋がりがあるというだけで優しくしてもらえたりするじゃん。
これってすごいよ。
親戚のおじちゃんやおばちゃん、もちろん家族も。
どんな自分だろうと変わらず接してくれると信じられる。
そこに甘えてしまっている部分も大きい。
人は、子どもの頃に充分にできなかったことを大人になってから執拗に追い求めてしまうものだと思ってる。
幸せな家庭に憧れていた人は結婚にこだわったり、自由になりたかった人は自由にこだわる。
ほしかったおもちゃ、ホールのケーキ、何もしない時間、貪るように楽しむパーティー。
人によって欲するものは違えど、異常な渇望を持ってる。
異常だということに本人が気づかないほどナチュラルに。
俺にとってはそれが「自由」だった。
学生時代にも「自由」を口にし、社会に出てから今でも変わらず自由を求めてる。
なんでも自分で自由に選びたいんだ。
何にも縛られず、選択肢を狭められず。
自分で「気付く」ということを大切にしたいがため、アドバイスすら不要と言い切ってしまうこともある。
謙虚じゃないよね。笑
でも、俺にとって「知る」ということはとても楽しいことであり、自分で気付くあの瞬間がとても好きなんだ。
それをアドバイスと言う形でネタバレされたらたまったもんじゃない。
あと、アドバイス勢には少なからず自尊心を満たすためにやってるやつもいるので気に入らない。笑
そんなことを思ってるうちはまだまだ未熟なのだということもわかってるし、何よりこんなやつ生意気だよね。笑
物事をななめから見てしまう癖はいまだに抜けないようだ。
お互いの自由を増幅させられるような関係性を研究してる。
なぜだか、関係性に名前がつくと不自由になるものが多いと気づいたんだ。
不自由や拘束もある種の幸せだということも理解してる。
制限がない中で幸せを見つけるのって難しいしね。
あえてそこに飛び込みたいんだけどね。
制限がないと感じるくらいの自由。
どんな感覚なんだろ。
この俺でも飽きちゃうのかな。
飽きてみたい。
「自由」もうええわ〜。って。
そしたら不自由に憧れ始めるんだろうな。笑
それもまた良し。
のぞむところ。
その境地に達したい。
自分の中にあるものをありのまま表現して体系的に並べ「これが自分!」といえる何かを作りたい。
どうでもいいことから価値のあるものまで。
すべてを俯瞰してみる方法はないだろうか。
そんなことを考えながら生きてる。
このへんにしとこ。
それでは。
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