部屋をキレイにしたいのに汚い。
容姿を整えたいのに整えられない。
お金を稼ぎたいのに稼げない。
人間には潜在意識と顕在意識というものがある。
潜在意識とは、自分自身でも自覚ができない領域で感じていること。
顕在意識とは、自分自身が自覚できる意識のこと。
深層心理と潜在意識って同じようなものだと思うんだけど、ここが現実の邪魔をしていると感じてる。
本当の自分は、潜在意識の段階では、どう感じているのか推測することが習慣になってる。
ちゃんとしたいのにちゃんとできない時、人の心の奥には「甘えたい」という気持ちがあるのだと思う。
その証拠に、最後の最後の崖っぷちになると謎の力が出る。
深層心理の願いと共に心中する気はないようだ。
そして深層心理で望んでいることには原因も存在していると思ってる。
多くの場合、子供の時に充分にできなかったこと。
今思うと、もともと、末っ子気質で自己中で甘えん坊だった。
でも、ある時期から「しっかりしなきゃ。」という意識が芽生えた。
それは顕在意識での話。
潜在意識は簡単には書き換わらない。
何を以って”充分”といえるかは人によって違う。
一般的に充分と思えるようなレベルで経験していても、本人にとっては不足していることだってある。
うまくいきそうになった途端、やる気がなくなったり違う方向に興味がいくことがある。
これは、「もっと成長したい。」という潜在意識を持っているということだと感じてる。
そのままいけば安泰なのに、そうできない。
当たり前のことを当たり前にやってれば、この日本では多くの場合、結果に結びつき結果も出ると思う。
特に、雇用されていれば基本的にはお給料は支払われるだけで。
使った時間分のお金は稼げるはず。
俺がフリーランスになったのも、内なる声を叶えた(叶えてもらった)からだ。
頻繁にピンチに陥ることを全く望んではいないけど、何度もピンチになってしまうのは潜在意識が仕向けている可能性が高いと思ってる。
「つまらない」ことを受け入れれば、もうちょっとお金に困らない生活ができるはずだ。
だけど、心のどこかで自分の可能性を信じていて、自分ならできるという「自分自身への信頼」が証明しようとする。
顕在意識の俺は本当に苦しいだけなんだけど。
ピンチになるということは、甘えたいという願望と成長したいという願望を同時に叶えてる。
本当に本当に、わざとやってるわけではないというのは誓う。
わざとやってるなら、こんなことこんなとこに書かないしな。
自分自身が一番苦しいんだ。
もっと余裕を持って暮らしたいのに。
しかし、潜在意識から目を背ければ一生つきまとうだけだ。
クリアしなければ次へは進めないんだな。
猫にあこがれるのは、猫はいつも思うがままに甘えて、思うがままに走り回って、その上で愛されているから。
そんな存在って、完璧だと思うんだ。
でも、恐れることなく手放しで甘えて走り回った先にしかその現実はないよ。
嫌われることを恐れないという才能を猫は持っているのかな。
もともとそういう概念がない世界で生きてる。
でも、意思を持って甘えてると思うんだ。
手練手管を使う生き物のように感じてる。
いや、手練手管より上級テクニックか。
嘘を使わずにやってんだから。
「かわいい」から許されてる部分も大きいな。
あの見た目で自由気ままにやられたら、そりゃ夢中になるでしょ。
自分の中の声に耳を傾ける。
本当の自分は何を求めているのか。
顕在意識ではなく潜在意識が人を動かしているのだから。
潜在意識というものがあるから、効率がすべてではないと感じる。
効率が良いことでも、潜在意識が求めていないなら効率が悪いんだ。
逆に、潜在意識が求めていることなら、圧倒的に行動できることがあるから、距離は遠くなっても達成までの時間は短くなることがある。
この人の心理の仕組みを知らなければ、俺達は一生謎の無気力さや無駄(だと思いこんでいるもの)に振り回される。
無駄が必要で無気力は合図ということもあるんだ。
それらを無視し社会的な常識を優先した結果、鬱になる人が増えてるんじゃないかと想像してるよ。
本来の自分の願いを叶え続けることで、心の中の黒い部分は薄まっていく。
変な人だと思われても、嫌われても、自分の願いを優先してみると心の中にキラリと光るものを感じるんだ。
湧き上がるワクワク感。
その時、生きてると実感する。
夢中になれるかどうかは、お金になるかならないかに依存しない。
特に、俺の場合、本当にやりたいことはほとんどお金にならないことばかりだ。
社会的な価値は低いのかな。
でも、圧倒的に行動できれば一部の人には響くかもしれない。
いや、誰かに響かせるためにやってるんじゃないだろ。
自分がやりたいからやるんだ。
その軸が基盤としてあることがだいじ。
どうなっても自己責任だし、誰かのせいにはできないしね。
だからやめたくなったならいつでもやめていいんだよ。
その気持ちもだいじ。
自分の人生の舵は自分が握ってるんだもんな。
今回、なんでこんなことを感じたかというと、手続きのために絶対やらないといけないことがあって、それは何年もめんどくさくてやれていなかったことでさ。
でもやらないといけないとなると30分くらいでできたんよね。
そういうもんなんだなと。
できないわけではないんだ。
やる気が起きない、めんどくさい、その奥に潜む感情を想像した。
やろうと思えばいつでもできる。
そんな自分への信頼もあるのだと思った。
毎回ヒヤヒヤさせられるので自分のことながら、本当にやめてほしいんだけど。
そして、人は社会との繋がりの中で成長したり、社会の一部としての自分を演じることである種の緊張感の中で生きてるのだと思った。
ここから外れると、まるで人が住まなくなってしまった家のように傷むのが早くなるように感じたんだ。
うまく表現できないけれど。
ほら、よく、仕事人間だった人が定年退職して何やっていいのかわからなくなってしまうあれ。
社会の一部の自分という緊張感や役目の中で自分というバランスを保ってんだよね。
この力が思ったより強いのだと感じた。
フリーランスだからこそ感じるんだよな。
自己責任のうえで自由。
意識しなければ、廃屋が野生に還っていくように、木々に飲み込まれていくように侵食される感覚があるよ。
でも、その野生こそが本来の自分でもあるのだと思うけど。
社会の中の一部として無意識にバランスをとっていたほうがキレイな自分を保てるとは思うんだ。
望むかどうかは別として。
顕在意識と潜在意識が常に一致している状態を作りたいな。
やりたいけどできない、そんな思いをこじらせて潜在意識に蓄積されていく感じがあるんだ。
だから、やりたいことからやってこ。
できるだけ。
いつしか、純粋になんでも求める子供のような自分と、社会性を保つための自分を内面で切り離すようになった。
子供のような自分に寄り添い、願いを叶えてあげたいと思うようになっていった。
自尊心というものは、そうやって切り離して考えると他者への思いやりと同様に捉えることができる。
絶対に裏切られることのない存在、死ぬその瞬間まで共にいることができる存在。
それを内面に作り出してしまった自分は寂しい人なのかな。
本来、それって他者へ求めることなんよな、きっと。
恥ずかしげもなく表現するなら、自分の思考・内面はそんな感じだな。
どれだけ駄目でも失敗しても失望しても変わらない存在。
それを一人、内側に作ることで精神を保ってきたのかもしれないね。
どれだけわがままな願いでも必ず理解してあげられる。
叶えてあげたいと感じられる。
この感覚も、きっと、育ってきた環境が作り出したものだと思う。
”変”な自分の中の感覚もできるだけ正確に表現したい。
そうすることが、昇華させることにつながる気がするから。
昇華した先には次のステップが待ってると思う。
未熟な自分を未熟なまま表現することで客観視するきっかけとなる。
意識できているかどうかがだいじ。
どれだけ自分にケチつけてもさ、どうせ一生一緒に生きていくことになるんだ。
だったら仲良くしようよ。
寄り添って。
理解して。
内面の自分と喧嘩ばかりしてたら辛いしな。
本当ダメダメだなwwと、一緒に笑えるような関係性を自分の内面で構築するのがいい。
やろうと思えば、起きてる時間、ずっと自分自身に冷たい言葉を突き刺し続けることもできてしまう。
そんなの辛すぎるじゃん。
駄目なとこがあるなら、一緒に笑ったり反省したりしながら生きていけばいい。
本当、変な感覚だとは思うけど、いつもそう思ってる。
自分と一緒に笑い合う自分。
このへんにしとこ。
ねむ。
猫が草を食べて体調を整えるように、文章を書きなぐることで心のバランスを整える。
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