どうしようもない部分って、誰にでもあるのかな。

少なくとも俺はいつも、自分自身のどうしようもなさに振り回され困惑させられ生きてる。

デタラメを風呂敷で包んで無理やり人間の形にしたような存在なので。

 

玄関のドアを一歩出ると、その形を保つだけで精一杯だ。

「普通とはなにか。」という哲学にも似たことを常に考えながら風呂敷の形が崩れないように意識する。

 

社会性とは、この風呂敷越しの人間性を”ちゃんと”見せることなのだと思った。

本来の形はどうであれ、”普通”を知り、普通に見えるように風呂敷にアイロンをかけ柄を整え、繕うことなんだな。

 

さっき、お昼ごはんを作っていて思ったんよ。

子供の頃って、”普通”を分かっているようで全く分かっていなかった。

そして今でも、普通を熟知している人からすれば、俺は”普通”に関する未熟者なのだと。

 

普通って難しい。

でもそこから逃げると社会では生きていけなくなるんよな。

だから玄関のドアの内側の世界が好きなんだろう。

 

 

時々、こんなことを考える。

愛される人は、何をもって愛されているのか。

立派だったら愛されるのか、正しければ愛されるのか。

答えはノーだと思う。

立派や正しさから生まれるのはリスペクトであり、もしかしたら愛情の一部かもしれないけれど本体ではない。

 

なぜなら、時にどうしようもない人に惹かれてしまうからだ。

それと同時に、どうしようもない人を嫌悪してしまうこともある。

表裏一体。

愛されることも嫌われることも、似ているんだな。

 

これが難しくていつも考える。

人を愛したことがあるか、愛されたことがあるか。

その答えはどちらもイエス。

嫌われたことがあるか、嫌ったことがあるか、これもどちらもイエス。

 

物事は単純ではない。

結局受け手がその存在を見てどう感じるかでしかないんよな。

自分が相手を見て”勝手に”どう思うかでしかない。

 

つまり、存在は絶対的であっても他人が感じる印象や存在価値というのは相対的なものでしかないということ。

ということは、誰かに合わせても結局相手の都合次第なんだからあまり意味はないということのように思えた。

 

本当にどうしようもない存在を心から愛しく思うことがある。

そのクズっぷりが好き!みたいな。

変に取り繕っている人より潔くてさ。

ヘンテコでもいいから「自分はこう!」と決めている人、ありのままの人は可愛らしく思う。

 

自分以外の存在が、自分にとって都合がいいかどうかなんて本来関係ない。

かわいい猫も急に噛んできたり引っ掻いてきたりするわな。

噛まれるのは都合が悪いけど、猫にとってはおかまいなし。

人間も猫も大差ない。

 

好きなものを追い求めすぎて生活のバランスを崩してしまう人は、社会的には駄目なんだろうけどなんだか可愛らしく思う。

熱中しすぎたり極端だったり。

無関心なものと興味があるものの差が激しかったり。

“偏り”は愛すべき欠点だと思う。

そういう部分に人間らしさや個性を感じる。

 

昔さ、電車好きの仲間がいてみんなで集まるファミレスに辞書みたいに分厚いガチの時刻表を持ってきたことがあったんよ。

新しい時刻表が出たと、喜々としていた。

俺より年上の人なので普通に考えるとちょっと変じゃん。

でも、そういう人間らしくて子供らしい部分をずっと持ってる人ってなんだか可愛らしくて純粋だと思った。

ちなみに、男だよ。笑

 

変とか場違いとかはあまり俺は気にならない。

一般的にどう思われる可能性があるかは分かる。

価値観の違いだわな。

本人は、あまりそういうことは分かっていないみたいだった。

無邪気。

 

人が人にこだわりや好意を持つ時、どんな理由があるのだろう。

コミュニケーションの中で相互に作用した結果、特別感に繋がっていくような気はする。

誰しもが欠点を持っている中で、その欠点すら愛せるかどうかが長く関われるかどうかなのだと思った。

欠点かどうかは自分で決めることはできないってことなんだな。

 

その視点を持ちながらも、なんでもありなんじゃなくて精進していこうという精神姿勢は引き続き大切だと思ってる。

”ありのまま”のレベルを上げたい。

 

日々、不意に感じたことをこうして残していきたいけどあまりにも時間がかかりすぎるな。

困ったものだ。

なにか作業をしている時に浮かぶ思考、この感覚がすごく好きなのに。

浮かんでは消えていく。

残したい。

考えようと思って考えられるテーマじゃないことも多々。

人の脳って不思議ね。

そして面白い。

すき。