自分の好きなもの、テイスト、素材など、あらゆるものを表現し続けたなら、その先には何があるだろうか。
きっと、「共鳴」できると信じてる。
誰かと繋がりたいから活動をするのか。
半分正解で半分不正解。
どこまでも自己満足でなければならない。
人との繋がりは大事ではあるけど最優先ではない気がしてる。
それよりも自分自身の内面を整えること。
自分と自分が仲良くすること。
その環境を作ること。
自分を厳しく律すれば律するほど「正しい人」になれる気がしてた。
昔は。
でも起きてる時間中ずっとさ、頭の中で否定的な言葉を投げつけられ続けるのって辛すぎん?
正しい人になれたとして、それは幸せなの?
そういう次元の話ではないのかな。
だとしたら、今の自分は「そういう次元」に達せなくたっていいから自分が思う幸せを追い求めたいと思った。
ちっぽけな存在でいいんだ。
子どもの頃は、何者かでなければならなかった。
吹けば飛ぶような存在だったので、潜在的に「すごい人」でなければならなかった。
それが唯一すがれるものだったんだな。
仮面ライダーのようなヒーローみたいにすごくて特別な存在。
大人になり自分が何者かなんて、誰かが決めるものではないと思った。
社会的な位置づけはあるにせよ、個人の中で自分が何者かということは自分が決められばいいと思った。
相対的な自分と絶対的な自分はどこまでいってもイコールにはならない。
だとしたら、簡単に誰かの都合で変化してしまう相対的な自分になんて興味はない。ってね。
理不尽な人に心を痛めつけられて泣いた時、自分が自分の味方でいられなくなっていたなら、どこかのタイミングで命はついえていたかもしれない。
きっと自分が傷つけられた以上にたくさんの人を生きている中で傷つけてきた。
それでも心の奥底に自分を守ってあげる自分がいなければダメなんだと思う。
ありのままに生きてみるとよく分かる。
みっともない、ダサい、そんな経験を通じて。
盛っていない実力をちゃんと噛み締めて。
大人になるとさ、息をするように嘘をつこうと思えばつけるようになってしまう。
ずるいことができてしまう。
でも本質的にはそんなことをしても何も変わらないんよな。
実力は底上げされない。
評価を誤魔化せる時があるだけで。
人間は弱いものなので、嘘をついたりずるいことを考えたりしてしまうのはしょうがないんよ。
だから、嘘をついたりずるいことを考えなくていい環境に自分を置くのがいい。
人間には良いところも悪いところもあってさ。
悪いところが社会性と相性がよくない人だっているでしょ。
ウィークポイントを把握し近づかないようにするのがいいと思ってる。
律するには限界があるんじゃないかな。
誰にだって欲はあるしね。
このへんにしとくか。
ダラダラ書きたくなるけど、ダラダラ書いちゃうと次書こうと思った時に書く時間が負担になって書き始められなくなったりする。
変な話だよね。
自分でやってるだけなのに。
自分の中で「これはこういうもの」みたいな定義が増えていく。
歳を取ればなおさら。
だから意識して時々ぶち壊す。
凝り固まらないように。
いつだって自由なんだ。
本当は。
なのに自分で決めてしまってるだけなんだ。
何をどうやったっていいんだ。
好きなように。
いつだって。
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