子どもの頃から人見知りで内気だった。
その割に好奇心は強く行動力もあった。
ゲームにのめり込み、いつもゲームのことで頭がいっぱいだった。
1日の間でゲームの時間が制限されていたが、ゲームをやっていない時も脳内で「次やれる時はこれをしよう。」と考えてた。
学校から帰る時にも「帰ったらまずこのゲームをやろう。」と思いながら帰った。
友達は少しだけいたが、本当に少数。
友達とゲームをするのが好きだったが喧嘩をしてしまうこともあった。
友達とゲームをしたいと思っても、うまく誘えずに一人でやることもあった。
ゲームが原因で友達と喧嘩をしてしまった時には、その後、一人でやれても面白くないと感じた。
友達と一緒にやっている時は自分がたくさんやりたいと思うのに、一人でやるとひどくつまらなく感じたんだ。
その感覚を今でも覚えてる。
存分にやれるはずなのにどうして。。って。
時は経ち、今はゲームが収入の一部になってる。
参加型で長くやっていたけど、最近は一人で完結するものが多い。
参加型を頻繁にやっていたのは想いがあってのこと。
もちろん、自分自身が楽しいからというのは大前提ではあったけど、誰かと一緒にゲームをしたいのにできない寂しい思いを抱えている人と一緒に遊んであげられたらどんなにいいだろうと思ったから。
それはきっと、今から考えると子どもの頃の自分自身の寂しさを昇華させる行動だったんだと思う。
あの頃の自分と一緒に遊んであげたかったんだろうな。
存分に参加型をやり続けたので、今は一人でプレイすることを寂しいと思うことはなくなった。
寂しさを抱え、心からこだわりを持って求めてくれる人がいるなら一緒にやろうと思えるけど、適当に暇つぶしで誰でもいいからやりたいみたいな思いの人とはやりたいと思えなくなってきた。
子どもの頃は寂しがりで甘えん坊で自己中で泣き虫で目立ちたがり屋で人見知りだった気がするけど、よく考えると相反する部分があるな。
目立ちたいのに人見知り、友達もたくさんほしかったけど自己中心的。
その中で、爆発するように興味があることを追い求めた。
友達がたくさんほしいという感情は今はなくなったかな。
これは一時期、自分で人を集めて大勢で遊び続けた経験が昇華させてくれたように思う。
同時に、たくさんの人と関わる煩わしさも体験した。
大勢じゃないと感じられない楽しさもあれば、大勢と関わるからこそのめんどくささもあった。
総じて、体験できてよかったとは思ってる。
子どもの頃に存分にできなかったことを、大人になってからも追い続けてしまうのだと感じてる。
もっとゲームをやりたかった。
もっと友達と遊びたかった。
もっとお金を使ってみたかった。
もっと甘えてみたかった。
と。
一般的に満足する量と、個人的に必要とする量は比例しない。
特に、子どもの頃に足りないと思ってしまったことは、大人になってから求めても満足しにくい傾向にある。
しかし、これを上手に原動力に変えることができれば圧倒的な行動量に転化できると思う。
たくさんの人と遊ぶことに関しては、人は選んだほうがいいと今は思ってる。
それができないのであれば少数でいいかなと。
見栄えを気にするなら少人数だと恥ずかしく感じる場面もあるかもしれない。
でも、それすら自分らしいと思えたならいい。
これが自分だよと。
実力がないと思われても、実力があろうとなかろうとこれが”今”の自分だよと。
馬鹿にされてもね。
そう、フラットに思いたい。
”人がどうか”より”自分がどうか”でいいはずなんだ。
本心でそう思えていたなら、他人に馬鹿にされても気にならないはず。
0を1にしたいと考える時、人の目を気にすることほど遠回りなことはない。
結局、人が集まろうが集まるまいが、やってしまったほうが早いんよ。
やり続けていたら、なんだかんだで形にはなるんだから。
でも、最初のやり始める時とやり続けている時にどうしても人の目が気になりがち。
まずは自分の小ささを受け入れたらいいよね。
”今”はそうなんだね。と。
先のことはわかんないじゃん。
一生同じ状況で居続けるほうが難しいわけで。
「一時的に馬鹿にされること」を恐れないようになりたいよ。
まだ完璧にできるわけではない。
関わる人が少ないメリットとして、人の目が気になりにくくなるというのはあるよな。
大勢の見てるだけの繋がりがあると、それが邪魔になることだってある。
愚直に下手でもやり続けたい時があるから。
不器用な人間は失敗しないように計画を立ててから行動するよりも、まず動いてみて失敗は折り込み済みで動きながら風を感じて軌道修正していくのがいい。
自分はそっちが合ってる。
どれだけスタート前に綿密に考えても、大体思ったようにはいかないんだから。
アクシデントも起きるし想像できなかったことも起こる。
知らないことだってあるしね。
だったら、どんなアクシデントが起きても解決できるスキルを身に着けた方がよくね?というパワー系の考え方。
人生脳筋プレイ。笑
ミスっても失敗しても、どうやって巻き返すか分かってればミスも失敗も恐くないじゃん。
そもそも一回もミスらずに死ぬまでいけるとは思ってないからな。
折り込み済みでいきたい。
大切なのはリスクの度合いを肌感でわかることなんだと思う。
少々のことはどうだっていい。
取り返しがつくなら問題ない。
ミスらないようにしようとすること自体が遠回りだ。
話を戻すけど、居場所がない人に居場所を作ってあげたいという想いは今も持ち続けてる。
友達がいない人に友達を作ってあげたいし、寂しい人が寂しくないのがいい。
だけど、問題を抱えている人の中には一定数、その人自身が解決しないといけない問題を持っている人もいる。
周りがどうこうできることではない。
たとえば、深夜にいきなり「さよなら。。」とか気になるメッセ送ってくる人とか。笑
一回だけならいいと思う。
人間、そんなときもある。
これを常習的にやっちゃう人は、相手の反応でしか自分が大切にされていると思えなくなっているんよ。
最初は本気で心配していた周りの人達も、だんだん「またか。」となってくる。
「今までありがとう。。」
「もう無理。。」
みたいな意味深な一言で周囲が心配しまくってくれたなら承認欲求を満たすのにコスパ良すぎだもんね。笑
これにハマっちゃってる人は抜け出すの大変なんだと思う。
だんだんと心配してもらえなくなっていってメッセの内容もエスカレートしていって、それすら心配されなくなって「自分なんてどうでもいい存在なんだ。。」と思い込む。
違うよ。
あなた自身がそう思っているから、そういう現実を自分の行動で引き寄せてるだけだよ。笑
そもそも、そんな言葉で相手を動揺させまくるのって失礼だよ。
狼男扱いされてしまうのは悲しいこと。
でも、そうさせてしまっているのは本人なんよなぁ。
こういう人も受け入れてコミュニティを形成してしまうと、コミュニティ自体が右往左往させられて疲弊させられることもある。
これ、個人同士の繋がりならまだ対応しようがあるんだけど、コミュニティ内でやられると最終的に本人が嫌われて終わる事が多い。
「今、山の中に一人でいるwww」
「星がキレイだなぁwww」
みたいなのを送ってきたりする。笑
実際に、コミュニティ内でこういうことがあって結局その人が孤立したということがあった。
みんなで会ってる時は普通の人なんよ。
俺は場を作ることはできる。
その中で関係を作ってあげることもできる。
場の中では、個人同士では難しいこともコミュニティとして成立させられるんよな。
でもそれはあくまでもコミュニティという枠組みや場があるから成立してるだけなんよ。
これを勘違いしてしまう人がいる。
友達を作った経験が少ない人は、繋がりが少ない関係性のやり方で大勢と関わろうとしてしまうので同じような失敗をする。
・陰口を言ったら本人に伝わる
・コミュニティメンバーだから仲良くしてるだけなのに距離感を間違える
・秘密のつもりで話したのに口外される
など。
これはもともと友達が少ない俺も他人事ではない話ではあるんだけど。
コミュニティとして関わるということは、共通の知人が圧倒的に多くなるということ。
これはトラブルのもとでもある。
1対1の繋がりを複数持つこととは意味が違う。
共通の知人同士の関係性まで想像する必要がある。
友達が少ない人に友達と遊ぶ楽しさや大勢で遊ぶ楽しさを教えてあげたいと思い、尽力しても最終的にその相手から恨まれて終わるみたいなことは珍しくなかった。
あと、コミュニティを作って運営することを簡単だと思って、軽く見られることも多かったな。
コミュニティって小さい時は特に丁寧に接しないと大きくならない。
大きくなった頃に人が自然に入ってくるので、多くの場合、自然に人が入ってくるところしか見ていない。
だから簡単なように見えるんよな。
でも、実際は裏でケアしていたり話を聞いたりもしてるもんなんよな。
コミュニティ運営って、結構机上の空論を思いついてしまうことが多かった。
性善説で考えてしまうから。笑
あと、俺も若かったな。
未熟だった。
「俺が動けば周りの人も動いてくれますよ」的なこと言ったことあると思う。笑
本当勘違い野郎。笑
そうやってカッコつけたかったんだろうな。
イキりたかったんだと思う。
かっこ悪いね。
当時は、実際そうだった。
なにかやるといえば手伝ってくれる人も多かったし。
時には、思ってもないようなことを言ってしまうこともあったんよ。
自分を大きく見せたかったんだろうな。
今から考えると、本当情けないのもそうだけど申し訳なく感じるよ。
自分の未熟さ故に、関われなくなってしまった人も確実にいると思ってる。
そのことはずっと自分の中で何度も考えて反省していこ。
今は、ありのままの自分でいくと決めて数年活動しているので、コミュニティ全盛期とはまた違うかな。
コミュニティを成立させたり大きくするために自分を抑えるみたいなことは極力しないようにしてる。
本来の自分を出して数字がとれなくても人が離れても、それはそれ。
その上で成立させることを考えてる。
”良い人”と思われる反動は恐ろしい。
もともといい人ではないのに、良い面を出そうと心がけていたことはあまり良くなかったように思う。
まるで嘘のように見えるんだろうな。
悪いところを出してしまった時にさ。
本当はどっちも自分なんよ。
天使のように人の幸せを願う自分も、悪魔のように最低なことを考える自分も。
まぁ、最低な自分がいる時点でアウトなんかな。笑
きっと、自分の良いところだけを全面に押し出せばまたたくさんの人と関われるんじゃないかと思うけど、たくさんの人と関わること自体にあまり意味を感じられなくなった。
今はね。
先のことはわからないけど。
もうちょっと、ありのままの自分を堪能してみたい。
日々、配信を通じて少ないながらもコミュニケーションをとれているからか、一人で遊んでいるという感覚はないな。
寂しいと感じる人が寂しくなくなりますように。
やりたいと思うことが周りの人に受け入れられ楽しめる人が増えますように。
いつも願ってるよ。
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