外から見えない場所で数人でやり取りしています。
先日ちょっと書いたかな。
普通にやり取りがない時は1年単位で余裕でやり取りがない場所でもあります。
それでも閉じないのは、その場所を閉鎖してしまえば簡単に縁が切れてしまう可能性があるからです。
そんな、心もとない場所を大切に思うのも変な話かもしれないけど、仲がいいことと大切にしたい縁というのは必ずしも一致しないということ。
そこまで深い仲ではないけど、素敵な人柄の人とは繋がっていたいと思う。
自分が得したいからとか搾取してやろうとかそういうことじゃないよ。笑
関わっていて心地いいからだ。
その外から見えない場所にいるメンバーの一人の身内に不幸があった。
それはこの前ちょっと書いたかな。
普段、全く連絡をとっていなくても、みんな心を寄せ合って本心で心配し思いを寄せた。
本当に不思議な関係だよね。
一般的におかしくても理解されなくてもいいんだ。
少なくとも当人同士では成立してる。
メンバーのうちの一人が送りたいものがあると言い出した。
身内に不幸があった方と俺は偶然1回だけ会ったことがあるけどほとんど会話をしていない。
送りたいと言い出した方と身内に不幸があった方も2回しか会ってないんじゃないかな。
それでも本心で心を寄せているのが分かる。
そういう人だ。
社交辞令や上辺でのものではない。
どちらかというと、何も送らなくても不自然ではないからだ。
そしてこの関係性の中では義務感に苛まれることもない。
あの人が何か送るんなら自分も何か送らないと。。みたいなことがない。
だから送ると言い出しやすいし、受け取る側も変な気を使わなくていい。
もらったから何か返さないといけないという義務感も不要。
やりたいからやる、送る側もそういう気持ちでやってるのが分かる。
本来の人間関係ってこういうものなんじゃないかな。
団体の中でバランスをとったり空気を読んだりしなくても、本当に相手を思いやり心を寄せることができれば何も不自然ではない。
奇跡的な距離感で関わっているからできることもあると思うんだ。
実際、身内に不幸があった方は周りにほとんどのことを口外していないらしい。
俺も誰にも言うつもりはないし、そもそも共通の知り合いもほとんどいない。
あまりにも距離感が近すぎると逆に言いづらいこともあるのだと思った。
思いやりはあるけど距離が近すぎない、俺たちみたいな関係性、しかも1対1ではないという環境が言いやすかったのかもしれない。
俺が、素晴らしい・素敵だと思う人にはいつも幸せでいてもらいたい。
それが会ったことない人であろうが普段から連絡をほとんど取らない人であろうが。
今日、ちょうど似たような事を考えていた。
一度愛した人には離れた場所でも幸せになってもらいたいなって。
顔を合わすと憎くなる人も中にはいるよ!!笑
きれいな終わり方だけじゃない。
それは俺が悪いこともあれば相手がきっかけで終わる関係性もある。
どういう終わり方であれ、一度好きになった人、心から愛した人には今もこれからもずっと知らない場所でも幸せでいてほしいなと思った。
色々あってもさ、一度は特別な存在になったわけじゃん。
顔を合わせるとそう思えるほど心は広くないかもしれない。
だけど、関係性が終わって数年も経てば心のイガイガも多少なくなるでしょ。
時々、ふと思い出してチクリとすることもある。
自分勝手な俺はいつも自分のことでいっぱいいっぱいになって誰のことも幸せにはできないんだろうなぁと考えてしまう。
自己中心的なんよな。
自分も誰かのことも幸せにしにくいんだろうなと。
それでもこんなふうにしか生きられないから理解してくれる人達と関わっていくしかない。
ダメなとこたくさんだからな。
ダメダメな男でも、仲いい人や尊敬する人の悲しみには心から向かい合う。
何もできないこともあるけど、心の中だけは本心で。
思いやりは心の氷を溶かすんよ。
悲しみも思いやりも、ありありと伝わってくる。
できるだけ近く近く心を寄り添わせ、悲しみも何もかも理解したいともがく。
少しでも多くの悲しみを共感したいと願う。
そして、できることならその感じた悲しみの分を、当事者から解放してあげてほしいと考える。
でもそれもエゴかもしれないのだけれども。
相手が求めるかどうかは関係なく、勝手に思うこと。
深い深い悲しみの中にいるときってさ、まるで暗い深海にゆっくり落ちていくような感覚になるよ。
果のない暗い闇にゆっくり落ちていく。
薄く目を開けると楽しかった日々が見えるのに、感じるのは虚しさや悲しさなんよな。
同じ風景なのに感じ方がどうしてこんなにも違うんだろうと考えた先に、現実を思い出すんだ。
あとはその繰り返し。
またゆっくりと無気力に目を閉じることしかできなくなる。
そんな状態の時、悲しさや虚しさを手放すことさえ名残惜しく感じる時がある。
この辛さや痛みさえ、愛しさの一部なのだと感じることがある。
それを知ってるから、早く傷がいえるといい、悲しみから解き放たれるといいと客観的に思うけど、そもそも本人がそれを望んでいるのか分からないと思ってしまう。
だから自分の気持ちとは別に、相手の気持ちを想像する。
悲しみを含む全ての感情を感じ切り、泣けるだけ泣けばいいと思うようになった。
自分の感情を誤魔化しても、何もない時に不意に涙が止まらなくなったりするじゃん。
あれ困る。
仕事を休んで何もしない日を数日過ごしたっていいんよ。
何もしたくないなら、「何もしない」を継続したっていいんだ。
心がそうしたいと望むならほとんどのことはやっていいと思う。
自分も死ぬという決断だけは避けてほしいと誰に対しても思うけどね。
それ以外ならほとんどのことはいいんじゃないかな。
深い悲しみの中にいる時、誰の言葉も薄っぺらく感じてしまうことがあるんだ。
慰めの言葉も励ましの言葉も、結局リアルな突き刺すような悲しみの前では無力のように感じる。
千の言葉を積み重ねるよりも、36.5℃のぬくもりのほうがよっぽど心を救うことだってある。
言葉なんかなくてもね。
人によって何が響くかは違うんだろうけど。
俺は悲しい時、とことん一人でいたいと思ってしまう。
どれだけ薄っぺらく感じられても、心から悲しみを理解し寄り添いたいという思いは伝えたくなるよな。
俺の周りにはそんな人達ばかりいるんだ。
そのことを誇りに思った。
優しい。
みんな幸せなのが一番いい。
悲しいことなんて起きなくて、ずっとずっと笑っていられたらいいのになぁ。
なんて、本気で思ってしまう。
構造上無理なのは分かってるんだけど、いつも思うのはそういうこと。
いや、あまりいいことばかり書きすぎるとよくないな。
いい人に思われたくて書いてるんじゃないんよ。
本心を書くと、いいこと書いてるふうになっちゃうんよ!
でも、自分の中にはダークな部分も存分にあるのでいいとこばかりじゃないよ!(なんのいいわけ)
いい人に思われるのってリスクだと感じてる。
本当に俺は人をガッカリさせるような部分もたくさんあると思うので、良い部分を見せながらも自分は良い人間ではないということも書いておかないと。
いいとこも悪いとこもある人間だ。
矛盾してるとこもあるんだろうな。
でも、刹那的に感じてることは一瞬一瞬本当なんよな。
そういうもんでしょ。
子供の頃から死ぬ瞬間まですべて一貫性を持って生きるなんて無理じゃん。
過去にこだわらず、今感じてることを最優先にしていきたいね。
先のことなんて分かんないけどさ、一貫性を保つために未来を犠牲にするのってバカらしいしな。
黒も白もどちらもあるからこその説得力も生まれるかな。
最高な部分も最低な部分も持ち合わせたまま生きる。
周りの人達が最高なのは自分のことのように嬉しい。
身内に不幸があった方に遠方から思いを寄せ、何か送ろうと思うその心が素晴らしいなと思い残しておく。
俺と関わりがある方には俺も本心で心を寄せたいよ。
素敵な人・素晴らしい人だと俺が思っている人達がいつも幸せでありますように。
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