この5年ほど、自分の中にある悪意やズルさみたいなものと向き合ってきた。
「良い人」と思われてしまわないように。
昔からズルい、卑怯な部分はきっとあったんじゃないかな。
心の奥底にある防衛本能のせいだ。。なんていうつもりもない。
悲しませたり傷つけた人も無数にいると思う。
「良い人」だと誤解させてしまうと、最終的に良い話にはならない。
良い部分も悪い部分もあるよ。
そう表現しておいたほうがいい。
その前提の上で、自分の中にある屈託のない善意のようなものもまた、本物なのだと感じるようになった。
人間は、良い人間と悪い人間というふうに分けられるものではない。
きっとグラデーションであり両方存在するものなんだ。
そして良し悪しというものも人によって違う。
感覚という視点でもそうだし、立場によっても。
すごくフラットに考えると、虫を殺しても咎める人は少ないけれど猫を殺すと憎悪感を抱く人が多いんじゃないかな。
そう感じる。
でも、命の重さが同じなら虫も猫も、そして人間も「1」に変わりはないはず。
自分が人間だから人間の立場として物事を見て認識し理解して善悪を決めているだけにすぎない。
津波や地震は、人間の立場からすると「悪(望まないこと)」のように見えてしまうけれど、結局自然現象に人間が抱く「意味」がないように、本来、善でも悪でもない。
人間、動物も自然の一部なら、そこで巻き起こる現象もまた自然の一部なんよな。
善悪は人間の中で生まれ共有された概念にすぎない。
それでも人間社会において秩序を保つためにはある程度必要なのだと思う。
ただ、立場によって善悪は簡単に正反対に映ることを忘れちゃいけないね。
自分ひとりの脳内の中で考える善悪については、地に価値観があって考えるものなのでどうしても偏りが生じる。
一つ一つのことを脳内で検証して、誰が悪いか、何が悪いか、どうすればよかったかと考えることになる。
そこにどうしようもない欲望も絡んできて話はめちゃくちゃになるわけだ。
理性を抑えられるかどうかということもあるしね。
本題。
自分の中で善について考えている時に感じたこと。
本当の善は、ポーズじゃないんだ。
見せかけじゃない。
だから誰も見ていなくても知られなくてもそこに在るもの。
これを判断基準とするようになった。
身近な人の幸せを願ったりすることは、相手にわざわざ伝えないことがほとんど。
ふとした時に、あの人元気かな、どうか幸せでいてくれますように。と思う。
わざわざ連絡とかはしなくても、自分の中で確かに感じること。
善は言い訳によく似てる。
対外的な見え方を意識してしまうとよくわからなくなる。
誰も見ていない時の行動や心の変化に気を配ることで知れるんだ。
その結果、自分は必ずしも悪い部分だけの人間でもないと思えた。
まぁ、こうしてここに書いちゃうと意味なくなっちゃうんだけど。笑
それに他人からすればまじでどうでもいいこと。
俺が善人か悪人かなんてね。笑
引き続き、いい人ぶりたいわけではないんだ。
「良い人ではない。」そう思ってる。
でも、だからといって一生良い部分を出しちゃいけないってことでもないよな。
良い人ではない、その前提で一部良い部分だってあるよ。
アピールではなく自認したという話。
ーーーーーーーーーーー
心の偏りをすごく感じるようになってきてる。
やりたいと思うこと、やらなければならないと思うことはあっても動けない事が多い。
自分でも不思議なくらいに。
不自然なほどに動けなくて。
そのことによって誤解させてしまうこともあると思うんだ。
それは申し訳ない。
数年前、場面緘黙(ばめんかんもく)っぽくなったことがある。
特定の場面で話せなくなるという症状。
生放送をしてもほとんど喋れなかったり。
今まで普通にできていたことができなくなった。
思えば、自分が人見知りだと思っていたものは軽度も場面緘黙だったのかもしれない。
久々に会う人にも人見知りをしてしまうこともある。
複数人で話す時に不自然なほど話せなくなるのもあの感覚に似てる。
人見知りというか場面緘黙なのかもしれない。
もしくはその両方。
大人数で集まる場所が苦手。
居場所がないので。
身の置き所がない。
居場所がない場所に行くのが苦手なんだな。
たとえ知った顔ばかりだとしても、そこに居場所がなければ行けないんだ。
自分が自分らしくいられる空間。
変に思われない空間。
たとえ、相手が変に思っていなくても自分が嫌なんよな。
うまくできないことが。
かといって何か方法があるわけでもなく。
そんな自分の偏りも愛していこうと思った。
歳を重ねたからそう思えるようになった。
「そんな部分もあるんだね。わかったよ。」
と、自分に話しかけてあげるようになった。
「そっか。じゃぁ、一緒に考えていこうか。」と。
上手にできないことも、100%の理解者を内面に生むことで心のバランスをとってきたんだな。
逆にいうと、そうじゃないと社会生活において成立しなかったんだと思う。
昔は自分のできない部分を自分が一番責めてた。
なんでこんな簡単なことすらできないんだよ!って。
24時間自分に叱咤され続ければ心は痛めつけられる。
世間はきっと、そういう人の方が信頼するのだと思う。
自分に厳しいほうが。
じゃぁ自分はどうしたい?
優しくしたかった。
人にも優しくできないやつが自分に優しく?
なまぬるいこといってんじゃね〜よ。
そうやって自分自身との話し合いを続けた。
その結果、大人の自分が子供の自分を100%理解し、社会的には大人の自分が、本来のやりたいことは子供の自分がやることになった。
上手にできない自分に優しく声をかけ続けることができるようになったのはこの精神構造ができあがったからなのだと思う。
とはいえ、解離性障害とかそういう話でもなく、あくまでも自分の中のイメージ。
極限状態になる前に自分で分離して考えるようになったという感じ。
どんな自分も一旦は受け入れる。
その後、駄目なことはどうやって改善していくか「一緒に」考える。
一人なんだけど、一緒に。笑
ほとんどのことは駄目なとこも含めて笑えればそれでいいと思ってる。
でも、一部、改善しなければならないと思うことや、付き合っていかなければならないと思う心の偏りも存在する。
特定の状況下で精神状態が不安定になりやすいことに気づいてる。
でも、そこに悪い人はいなくて自分の心の整理をつける必要があると思う。
これはトラウマを抱えた人がフラッシュバックしてしまうようなものだと思ってる。
誰かが悪いわけじゃないのに自分の心がダメージを食らってしまう。
こういうものについては、一旦そんな自分の心の偏りを受け止め、長い時間をかけて付き合っていく。
自分自身との対話を進めていくなかで消化していけたらいいな。
できるだけ等身大の自分で、心の奥底でどう感じているのかということに注視していきたい。
「こうあらねば」と思うことは、理想のイメージを守ることにとって有効だと思うけど、理想にそぐわない本当の自分を隠してしまうことにも繋がると思ってる。
自分くらいは、自分自身の奥深くを知ってあげたい。
そう思うようになったんよな。
内面のほとんどは自分以外の人に正確には伝えられないのだから。
言葉にした時点で感覚とは程遠くなる。
歳を重ね、姿形は変わっていっても内面の深い部分はほとんど変わらないようだ。
成長することはあっても、根底にある部分は変わらない。
「人並み」に立派な人間になることはできないだろうけど、自分が思う理想を突き詰めたい。
自由に自分らしくいること、そして、自由に自分らしくいられる人を増やすこと。
あ、すべてのことは自分のためにやるほうがいいと思った。
身近な人の幸せを見ることで自分が幸せな気持ちになるように、自分のやりたいことの中に身近な人達の幸せは含まれていると気づけたから。
俺みたいな人間は、「誰かのために」やらないほうがいい。
ガッカリしてしまうこともあるだろうから。
自分のためなら失敗してもうまくいかなくても誰かのせいになんてしないしできないもんね。
ありがた迷惑になってもよくないしな。
自分がやりたいからやった、それならその時点で目的は達成できてるんだ。
親切で気にかけてくれる周りの人達から幸せになっていくといいなぁ。
そこから徐々に世界に向かって幸せが広がっていくことを願う。
俺は自分を起点に考えてればいいんだ。
っていうか、それ以外できないしな。
そして自分の活動の中のことだけを考えていればいい。
そのことが自然と幸せに繋がったり誰かの心の安らぎに繋がると信じてる。
できれば、自分の居場所を作るとともに共感できる優しい人の居場所にもなればいい。
誰かの居場所を作ってあげたいという気持ちは昔から漠然とあるけど、俺が作った居場所を大切にしてもらえないとムカつくだろうからな。笑
やっぱ、「自分のために」自分の居場所を作って、そこが誰かにとっても居場所となるのがええな。
共感を軸に楽しめるコミュニケーションにしか興味がないので、そんな場所を作りたいとずっと思ってるけどなかなか難しいものだ。
悪口とかネガティブな感情を軸にコミュニティを作るほうが多分かんたんなんだけどな。
気持ち悪いし疑心暗鬼になるの分かりきっとるよな。笑 そんなの。
上手にできないこととは今後も向き合っていく。
どうすれば自分らしくいられるのか、どうすれば楽しめるのか、今後も模索する。
この記事へのコメントはありません。