人は、絶対的なものであり相対的なものでもあると思うんだ。
そこに存在していることは絶対的なこと。
しかし、社会の中の自分の立ち位置というのは相対的なものだ。
こんな話を聞いた。
施設に入った親しい人が1年も経たないうちに話すこともままならなくなってしまったと。
こんなにも人は環境に影響されてしまうものなのかと。
何気ない日常の中の気にもとめないような”刺激”が必要なんだな。
重力がなければ人はその形状を保っていられないのと同様に。
雑談、存在を感じること、心に思い描くこと、目に見えるもの、手に触れられるもの、口にいれるもの、味わえるもの。
そんな意識するまでもないようなこと一つ一つに少なからず影響を受けながら人は暮らしてんだ。
別件で、退職後の人の人生についても考えさせられる話があった。
最近は60歳でも70歳でも仕事の面接にくるらしい。
華麗な経歴を持っている人でも、年には勝てないんだな。
本人が一番悔しいだろう。
できると思っていたことができなかったこと、できない自分を目の当たりにした時、老いを感じるんだろうな。
年を取ればとるほど、社会と接点をどれだけ持っているかで見た目・思考・価値観が変わってくる。
頑張ってでも社会との接点は多く持っていたほうがいいのかもしれない。
とくに、インターネットに触れることのないご年配の方は、リアル以外での接点が少ない。
これは危ないと思ってる。
インターネット上での人との関わりは、やはりリアルには及ばない部分が多いことは感じてる。
それでも、日々、コミュニケーションをとっているかどうかだけでも違う。
ネット上でも関わりをちゃんと感じられれば、何もない人と比べて大きな違いが出てくるはずだ。
人は話すことをやめると、話せなくなるようだ。
話しかけられなくなると話しかけることもなくなってしまう。
人は、一人で成立してるわけではないんだな。
繋がりの中で形成されてるんだ。
何もやることがない人は、自分以外のことがすごく気になってくるのだと思う。
自分のことに夢中な人は、他人のことがほとんど気にならなくなる。
自分の今の環境を他者のせいにしてしまえば楽だけど、それをやり始めたら終わりよ。
年をとり、人と話すことが減り、脳内で感じる言葉が自分の世界を埋め尽くすようになった時、事実と思い込みの境界線が曖昧になってくるのだと思う。
それぞれの視点で見ている世界は、同じ場所でも違ったように見え、違って感じるんだろうな。
物事とは”どう見るか”で見え方が違うんだ。
同じものなのにね。
身体的な刺激と心理的な刺激はどちらも必要。
時間とお金を使う価値のあるもの。
年をとればとるほどこの”刺激”の価値は上がる。
意識しなければ、日々を垂れ流していくだけだ。
恐いくらいの速さで時間が進む。
いつもと違ったことをあえてやってみたり、外に出てみるだけでもいい。
あてもなく電車に飛び乗ってみるのもいい。
刺激が足りていないなら作ればいいのだから。
まだ作れるうちに。
やがて人は、繭(まゆ)の中にゆっくりと入っていくように収束していく。
そして最後には赤ちゃんのような純粋な存在に還っていくのだと思う。
寂しさを通り越した先に、何を見るのかな。
あがけるうちは、あがこう。
そんなふうに思ったよ。
何もしなければ3ヶ月ももたないような生活をしている俺は、そういう意味では幸せなのかもしれない。
頭をフル回転し続けなければ簡単に生活が破綻してしまう。
数年、こんな生活を続けてるから慣れてしまったけど、一般的には危ない状況で波乗りしてるみたいなもんだよな。
動かなければ終わる。
それは野生の中では当たり前だけど、上手に作られた社会の中では実感しにくいよね。
ピンチになって初めて実感するんだ。
どんな環境も、一旦受け入れてそこからどうするかを自分で決めていくしかないよな。
孤独は人を弱らせる気がする。
年をとると、孤独という影が大きくなっていくようにも思う。
ネット上でもいいから夢中になれることを見つけることは本当に大事だと思う。
リアルで話せる人がいなくても、ネット上に居場所があればいい。
友達がいないことが孤独に直結するわけではないんだ。
寂しい人が減るといいなっていつも思ってる。
ただ、本人にも大きな理由があることもあるから、そこに本人が気づけない場合、他人がどうこうできる問題じゃないということもあるんだけど。
我を押し通したい、でも仲良くしてほしいというのは、無理な場合もあるよね。
我を押し通したいなら、ある種の孤独は引き受けなければならないと思ってる。
その覚悟がなければ難しいよな。
自分らしく生きるということは、ある程度の孤独と付き合っていくことだと思う。
その中で自分の感覚を踏まえバランスを考えていくことになるんだろうな。
孤独を感じにくいタイミングでは自分らしさ優先でいいと思う。
孤独に耐えられなくなってきたなら、歩調を合わせることを考えていかないといけないよな。
相手にも感情があるんだから。
誰もが受け入れられ心から楽しいと感じながら生活していけたらいいなっていつも思ってる。
誤解が生まれず思ったことがそのまま伝わり、その想いが受け入れられたらいいなと思ってる。
できることなら誰とも争わず、快適に生きていきたい。
そうも言ってられない時はやむをえないけどさ。
誰もが老いる。
例外なく。
何歳になっても日々を楽しく過ごせる方法を模索したい。
自分だけじゃなくて、誰もが楽しくいられたらすごくいいのに。
インターネット・AI・パソコン・スマホなどについてしっかり理解することが近道だと思う。
時間と場所と相手に制限がない世界。
たとえ寝たきりになっても24時間コミュニケーションをとれる方法が必ず存在してる。
年配の方こそ、新しい技術をしっかりと理解すると楽しくなると思う。
無理と決めつけるんじゃなくて、その無限の可能性に気づいてほしいな。
何歳になってもワクワクできる世界がそこにあると思うんだ。
知ってれば、変な詐欺にも引っかかりにくくなるだろうしね。笑
チャットGPTみたいなものに音声認識を対応させたら24時間口頭で話し相手になってくれる存在になるだろうしなぁ。
博識で不快なことを言わない友達になってくれるよ。
それは悪いことじゃないと思うんだ。
知識も深まる。
まだまだ情報の正確性には問題があるけど、それも踏まえていれば話した内容の真偽を確認するために検索をかけるだろうから暇な時間も少なくなる。
簡単にできることを、無理だと決めつけてやらない人には掛ける言葉もないよ。
うまくできるかわからなくても頑張ってみたいと思っている人に、人は協力したくなるもんだよな。
上手にできなくてもミスってもいいんよ。
それを笑い飛ばせればさ。
できないことが多くなっていくなら、認識しながらも笑い飛ばせるくらいの図太さを持ちたい。
「えへへ、できなくなっちゃった。でも、まだこれはできるよ。うん、問題ない。」って。
できないことをカウントすると悲しくなるかもしれないけど、代替できるなら問題ない。
同じような結果が出せるなら方法なんて関係ないしね。
時間がかかっても、”まだできる”ことに幸せを感じたいよな。
そんなふうに前向きに頑張っている人が好きだ。
時に、立ち上がれないくらい悲しい気持ちになることもあると思う。
それも当然だよね。
そんな日もあっていいね。
俺もある。
そういうときは、ひたすら眠り続ける。
そしてお腹が空いてご飯を食べる。
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自分らしさを取り戻す。
すべての人と分かり合うことは難しいかもしれないけど、心から分かり合え思いやりを持てる少数の人達を大切に思い続けたい。
相手の幸せを本心で自分の幸せだと思えるようなのがいい。
このへんにしとこ。
仕事増やさなきゃなぁ。
自分らしさを堪能できるのも後少しかもしれん。
生活のための仕事を増やさないといけない時期が近づいてる。
自分の活動のペースを落とさないといけないかもしれない。
自分の活動のことだけやってたいなぁ。
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