子供の頃は泣き虫で、すぐ泣いてた。
寂しくて泣いて、悲しくて泣いて、悔しくて泣いた。
傷つきやすいという事は、自分自身の事が大切な証拠だと思った。
大切に思うがあまり、他者を大切に出来ていなかったようにも思う。
それは本当に良くない。
反省すべき点。
当時の自分は気付いていなかったんよな。
もともと視野が狭いのにその自覚がない人間だった。
人から攻撃される時、知らず知らずのうちに、こちらも相手を攻撃してしまっていたのかもしれない。
未熟な者同士は、共に過ごせない。
涙を止められないのはしょうがない。
我慢しようと思っても出来るものではない。
我慢しようとしているのに、どうしても流れてしまう涙をバカにされてひどく傷ついた。
「みんなは、自分自身の事を大切に思わないのかな、平気なのかな。」と感じていた。
自分が自分自身を大切に思うように、誰かがその人自身を大切には思わないのだろうかと。
思えば、なぜかずっと俺は俺自身の事が好きだったんだな。
見た目がどうとか性格がどうとかそういう次元の話ではなく、存在自体が好きだったんだろうな。
自我が芽生え、客観視するようになり、その事を恥じるようになった。
バカにされる対象だと知ったから。
そういえば小学生1年生の時、勉強が本当に楽しかった。
すごく楽しいなと思い、知らなかった事を知れる喜びや出来なかった事が出来る喜びを感じていた。
でも、友達は楽しくないと言った。
「そうかな、俺は楽しいけどな。」と思った。
なんだか、勉強は面白くないと悪びれる人のほうがカッコいいような気がしてしまって真似してるうちに勉強が嫌いになったように思う。
遅かれ早かれそうなっていたのかな。
あと、昔から男より女の子の方が気が合ったんだけど、それを冷やかされるのがすごく嫌だった。
女性はなんというか、表情も柔らかく感情も柔らかく優しくて純粋なイメージがずっとある。
もちろん、大人になって腹黒い人も見たし関わらない判断をした相手もいる。
だから女性に幻想を抱いているわけではない。
事実として、母性みたいな感覚って女性にしかないような気がしてる。
心を寄り添わせるその優しさ。
少なくとも、あまり男性からそんなふうに接された事はない。
女性は自然にそれが出来ているのがすごい。
世の中の風潮的に、男性だからとか女性だからなんていうと叩かれがちだけど、そもそも体のつくりや生命の役割自体も違うんだから、そりゃ基本的な属性みたいなものは存在するでしょ。
そこにリスペクトがあるかどうかが大事なだけだと思うよ。
どれだけフラットな言葉を並べても、リスペクトの気持ちがなければ意味ないと思うし、男だから、女だからと個人の定義を発言したからといってリスペクトがあるなら問題ないと思うけどな。
ネット上では、関係性がない人が「FF外から失礼します。」なんてやってくるけど、「意見の押しつけならFF外から失礼すんな!」って思ってる。笑
言葉の意図を汲み取れない人、行間が読めない人とチグハグな議論をしたいなんて思わないよ。
どういう意図で伝えているか理解出来る人、想像力がある人の間で問題なんてほとんど起きないじゃん。
俺が性格悪いのも我が強いのも、全て自分自身を大切だと思っているからなんだろうな。
「あんたは自分の事しか考えてない。」って言われた事がある。
もう、気が遠くなるほど昔のことだけど。
確かにそうだな。と思う。
自分なりに誰かを想う事はあるけど、その誰かにとっては足りない事だってあるじゃん。
相手が思う合格ラインを目指さなければならない関係性ってなんなの。笑
理想の関係を追求すべきだとは思うけど、その理想の形が違うなら致命的だよね。
自分が大切にされない事を相手のせいにするのって、なんかおかしいような気がするんよな。
素直な気持ちとして持つのは当然だと思うけど、自分も相手も人間で相手にも言い分があるかもしれなくて。
そして、関係性上面と向かって言えない事だってあるかもしんないじゃん?
「はっきり言って!」
「でも、言ったら怒るじゃん!」
そんなやり取り、世界中で無数に繰り広げられてると思う。笑
大切にされなかったから悲しくて寂しかったんだよね。
大切にしてほしかったんだよね。
それをお互い可愛く言えなくなったらこじれるんだよね。
。。って、何の話?笑
自分自身が自分をこんなにも大切に思っているのに、あなたはどうして私を大切にしてくれないの?って事なんだと思う。
私があなたの事をこんなにも大切に思っているのに、どうしてあなたは私と同じかそれ以上に大切に想ってくれないの?という事でもあると思う。
想いを言語化出来ず、感情をぶつけた結果、本当はとても可愛らしい気持ちだったはずなのに鬼と対峙してるような気持ちになる事あると思うよ。笑
何に腹が立つのか、それは本当に怒りなのか、目に見える出来事ではなく、目に見えない内面に答えを求めると解決策が見つかるかもしれない。
少なくとも、俺の場合はいつもそうだ。
自分自身の事を大切に思う事がコンプレックスだった。
でも、内面と対峙した時に恥ずかしがるものでもないと思った。
これはよく思う事なんだけど、生まれた瞬間から死ぬ瞬間までずっと一緒にいるのは唯一自分自身(の体と心)なんよな。
前にもどこかで書いたけど、心の中で会話をしてる。
主観的な自分と客観的な自分。
客観的な自分は社会性を身に着けた後天的に生み出された自分。
主観的な自分は、本来の動物っぽさを残したままの欲と自我にまみれた自分。
客観的な自分だけいればうまくやっているのかとおもってやってみたけど、うまくいかなかったよ。
やはり土台に主観的な自分がいなければ、人は魅力を生み出せないのだと思った。
客観的な自分だけでは空気だ。
味がしないんだな。
主観的な自分は、まるで縦横無尽に部屋を駆け回り高い所から飛び降りる猫。
誰かにとって都合がいい事ばかりではないし迷惑もかけるけど、いつも可愛がってくれる人がいた。
孤独になるとしたら、わがままが原因ではなく、こだわりを持ってもらえなくなるからだ。
大切にずっと手放せなかった本来の自分に立ち戻り、今、生きてる。
自分自身の事を大切に思う事をやめられなかった、過去の自分を誇りに思いながら。
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